友人で歌手の川村祐子さんの3周忌を3月27日に目黒のライブカフェVERGEで行ないました。お集りいただいた皆様、本当にありがとうございました。
貸し切らせていただける場所がなかなか見つからず、知人にご紹介いただき、ようやく見つけたこのVERGEというお店。実は、祐子さんが応援されていたメキシコ系アメリカ人のギタリストのライブを企画された場所だったと直前に知り、ご縁を感じずにはいられませんでした。忙しくて、そのイベントには伺えなかったのですが、「どうしてもこのギターの音を聞いてほしいの」と祐子さんから突然電話が入り、パペラというインドカレーレストランで永延と音について話しをしていた時の事を思い出しました。CDを嬉しそうに持ってやってきた時の祐子さんの表情は今も忘れる事ができません。
仙台でジャズシンガーとして活躍していた川村祐子さんは、ただ上手いといわれる歌手ではなく、本当の感動を与え、人々の心を癒す歌を歌うために上京してきました。
自分の心が癒されていなければ、人を癒す事はできないという祐子さんは、自らの生きる姿勢を日々問いながら、自分の心を見つめて生きていました。
普通ではありえないような強さを持ち、そして同時に桜の花びらのように優しくて柔らかで、傷つきやすい彼女の心は、様々な人々との出会いと分かれ、時に人のエゴや思惑に翻弄されて深い悲しみにくれることもありました。しかし、どんな時も祐子さんは、逃げ出すことなく真実を見つめ、常に自分の目指す世界に立ち向かおうとされていたのではないかと思います。
何も気にせずに勘違いも肯定し、自分を守るために自分に都合良く生きていたなら、こんなにも早い死を迎える事はなかったのではないかと思う事があります。でも、祐子さんは、どんな孤独と失意の中にあっても、最後までごまかす事なく、真理を追い求めようとしていたのだと思います。本当に人の心を癒す歌を目指す者として、世の中にアンヒールド・ヒーラー(癒されていないヒーラー)たちが多い中で、彼女が到達したかった世界がきっとあったのだろうと思います。
スリランカ出張が二ヶ月にも及び、彼女のSOSにこたえることの出来なかった私は、帰国してすぐ祐子さんに連絡を入れました。祐子さんは、2年前から再発していた癌が急に進行し、体力が亡くなり仙台のご自宅に戻られていました。
「とにかく、すぐ行くから」と言うと、「かたじけない…」と祐子さん。さぞかし辛かったのだろうと思います。それでも、全身の痛みをこらえながら、愚痴一つ言わずに「これ程の痛みの先に、何があるのかなぁ…」と言う彼女の声はとても穏やかでした。亡くなる3ヶ月前のことでした。祐子さんは、生きてきた道を振り返り、心に浮かぶたくさんのことを話してくださいました。その時既に死も覚悟していたと思います。何と言葉をかけたらいいのか…。どれ程の痛みを前にしても気丈に振る舞うであろう祐子さんを思うだけで、涙が溢れ、お見舞いに行く前に、私自身の気持ちが整理できなくなっていました。
そんな時、相談にのっていただいたのが、看護士でありミュージシャンとして活躍されているへんり未来さんでした。若い頃からギターの神童として注目され、プロのジャズギタリストとして活躍されていた最中、アメリカから帰国後に大病を患い、生死をさまよう体験をされています。その体験から、病に犯された人々をケアする看護の仕事は、音楽と同じぐらい大切なものと思うようになり、現在では東京の病院で看護部長をされ、また日本音楽療法学会認定の音楽療法士として、そしてミュージシャンとして活躍されています。
「あれこれ頭で考えずに、彼女の顔を見に行って来たらどうかな。もし、その時、かける言葉が見つからなかったら、ただ側に座って手を握って…それだけで、きっと伝わるから」と静かに優しくへんりさんは語り始めました。へんり未来さんの言葉は、思いこみや憶測や勘違いを起こさせる要素のない、誠実さと優しさにあふれていました。
新幹線に乗り、仙台駅から電話で祐子さんに道を聞きながら、やっと祐子さんと再会しました。私たちはいくつかの言葉をかわし合って、その後、私はずっと祐子さんの体をさすり続けました。
「痛みが体中にある時は、話が出来るんだけど、痛みがひいてくると今度は呼吸が苦しくなって声がでなくなるのよ。その繰り返しなの…」と言いながら、「とうとう骨と皮だけなの。ガリ子ちゃんでしょぉ〜」とおちゃめに笑って私に心配かけまいとする祐子さん。
その時、私に出来た精一杯の事は、その側でただただ祐子さんの体をさすることだけしかありませんでした。
ずっと自宅療養されていた祐子さんは、亡くなる10日前に入院。必死に何とか打ち込んだものと思われるたった二行のメールから、祐子さんの状況を知った私は、祐子さんを知るお友達と一緒に再び仙台の病院に急ぎ向かいました。
ガリガリだった祐子さんの体は、今度は点滴によって膨れ上がっていました。パンパンにはれている自分の足を、自力で上に上げられず、「足を持ち上げて」と祐子さん。言葉をしゃべる事もやっとの状態の中、それでもベッドの手すりに捕まって、全力を込めて自力で寝返りを打とうとする祐子さんの姿に、最後まで死に向かうのではなく、生きようとする祐子さんの姿を見ました。
「また、来るからね」と言って、まばたき一つせず見つめ合って…ずっと見つめ合って…目を開けたままの優しい表情のまま祐子さんは、眠りにつくかのようでした。
数日後、東京に満開の桜が咲いた夜、仕事の帰り道、車の中から夜桜を眺めながら胸騒ぎがして、何度も祐子さんのご自宅にお電話をかけたのですが通じませんでした。次の日の朝、電話口に出られたお母様から、昨夜祐子さんが亡くなられた事を知らされました。
私と祐子さんは、世間でいう友人という関係とも少し違っていたかもしれません。話をするのは歌の事、音の世界の事、自分の目指すビジョンのことだけでした。パーティーなどたくさんの友達と一緒に会う事はほとんどなく、一緒に遊びに行った事もほとんどありません。会う時は二人でのことが多く、祐子さんの人生の節目節目に連絡をいただいて、その時は時間を忘れていっぱいいっぱいお話をしました。
自分の歌の表現の場を求めて日々模索していた祐子さんは、すばらしい歌声を持ちながら、あまり歌おうとされない方でした。そんな祐子さんが、プラザライブで歌ってくれたジャズバージョンの日本の歌「さくら」を、私は今でも忘れる事ができません。
本当に感動した時、人は拍手することさえ忘れてしまう。そんな歌でした。祐子さんも、「これまでの人生で歌った中で5年に一度歌えるかどうかの歌だった」と言っていました。
きっと今頃、祐子さんは天国で、幸せに自由に歌っている事と思います。
でもね……、祐子ちゃん、生きていてほしかったよ。3周忌を迎えた今も悔しくてたまらない。この悔しい気持ちはずっとずっと変わらない。生きててほしかった。川村祐子の歌をもっともっと聞きたかったよ。この世で歌い続けてほしかった。
祐子さんにとって、まさに歌うことは生きること、生きることは歌うことでした。最後まで川村祐子の美学を貫き通した祐子さんの愛と勇気と思いやりをいつまでも忘れません。これからもずっと、心の中に祐子さんは生きています。
最後に…祐子ちゃんとかわした二人の約束、大切にします。ずっと天国から見守っていてねぇ。