仕事を終えた後、
11/23は砂川平和ひろばへ。
砂川平和ひろばから見る花火を撮影に
伺わせていただきました。
花火が始まると大勢の方々が
砂川平和ひろば周辺に集まっていました。
砂川平和ひろばを主宰されている
福島京子さんのつくるポップコーンをほおばり
ながらの楽しいひと時〜♪
あったかいコーヒーと
砂川平和ひろばのおうどんも大人気!!
▲稲橋ゆみこさん&しげ兄さん&たからプロデューサー(わんちゃん)
「砂川なら時間が合えば、いつでも遊びにいくから誘ってよ〜♪」
と言って撮影に全面協力してくださっている映画「アオギリにたくして」撮影監督では大変お世話になった撮影技師の倉本和人さんも、かけつけてくださいました。
撮影後に、砂川平和ひろばの
おうどんをご馳走になり、
冷えた体がポカポカに〜♪
この日は、撮影を終え、次の仕事で品川へ。
朝・昼・晩、休みなく働いたこの一年。
まだまだ、これからです!
夜空に浮かぶ花火を見ながら
いつもどんな時も変わらずに
あたたかく見守ってくださり
ご支援・ご協力くださっている
皆様のことを思い浮かべ
感謝の気持ちでいっぱいになった
砂川の夜でした。
12/2(日)は13:00〜より
砂川平和ひろばにて、
ギタリストの伊藤茂利さんと一緒に
耐震改修工事完成記念コンサートに
出演させていただきます
13:00〜14:30の90分ライブです。
歌・演奏・朗読etc.をお楽しみください〜♪
Vo.&朗読:中村里美
Gt.&朗読:伊藤茂利
皆様よろしくお願い申しあげます。
2018年11月25日
2018年11月10日
砂川秋まつり🎵 音楽演奏、人形劇、つな引き、屋台、フリーマーケットなどなど… 今年の展示企画は「砂川秋まつり・大チラシ展」
2018年11月09日
第4回砂川の大地から とどけ平和の声 取材・撮影に伺わせていただきました〜!
2018年09月03日
9/2「砂川平和ひろば」と「ふらっと実行委員会」主催によるひろば食堂「ふらっと」・無料塾「ふらっと教室」がスタート!
昨日は、現在製作中のドキュメンタリー映画「砂川の大地から」の取材で砂川平和ひろばへ〜🎵
9月2日、「砂川平和ひろば」と「ふらっと実行委員会」主催による
ひろば食堂「ふらっと」と「無料塾ふらっと教室」がスタートしました。
「ふらっと」には
みんなが立ち寄れて
みんなが平等に!
という思いが込められています。
心の満たされる場をつくり、
次の世代に地域の歴史を伝え、
平和を考えるきっかけをつくっていきたいと願う福島京子さんとひろばに集うみなさんの思いが、一歩ずつ広がっています。
月一回開催
食堂は12:00〜午後14:00
無料塾は14:30〜16:00
子供や子育て中の親、高齢者など
誰でも参加可。
18歳以下無料、大人300円
問合せ:砂川平和ひろば
TEL: 042-536-3167
2018年08月22日
ドキュメンタリー映画『砂川の大地から』製作中〜!昨日は改装中の砂川平和ひろばへ。
2018年06月13日
「砂川平和ひろば」の福島京子さんが植樹してくださった被爆アオギリ2世がこんなに大きく育っています〜🎵
砂川平和ひろばを主宰する福島京子さんが、
砂川闘争から60年を迎えた2015年秋に
植樹してくださった被爆アオギリ2世が、
今ではこんなに大きく成長しています〜!
現在製作中のドキュメンタリー
映画『砂川の大地から(仮)』の取材に
先日伺わせいただき、
アオギリの成長ぶりにびっくりしました。
2016年から撮影をスタートした『砂川の大地から』では、
この2年間、砂川に通いながら、
福島京子さんの姿を追わせていただき、
たくさんの感動をいただいています。
福島京子さんと平和ひろばに集う人々の
まっすぐで純粋な平和への思いは、
大空に向かってスクスク育つ
アオギリのようです。
撮影で砂川を訪れるたびに、
福島京子さんとアオギリから
たくさんの勇気と元気と希望をいただいています✨
まだまだ撮影は続きます。
何卒よろしくお願い申し上げます。
2018年02月04日
ドキュメンタリー映画『砂川の大地から』取材&撮影へ〜🎵
2017年11月20日
グリーンコリア代表のシン スヨンさんが砂川平和ひろばを訪れました。
昨日砂川で開催された、「砂川の大地から とどけ平和の声2017」実行委員会の皆様の主催による米軍立川基地返還40周年記念の16ミリ映画上映と討論会にメッセージを寄せた韓国のグリーンコリア代表のシン スヨンさんが本日砂川平和ひろばを訪れ、主宰の福島京子さんのインタビューが行われました。取材・撮影で同席させていただきました。
※ 韓国の首都ソウルのど真ん中にある龍山(ヨンサン)基地は、以前は旧日本軍の軍事基地でしたが、1945年以降はアメリカ軍の基地として今現在も使用されています。ヨンサン基地の返還に際して、基地内の米軍施設は、平沢(ピョンテク:ソウルから南へ65km)への移転が進行中で、その移転が終われば、基地後は公園用地として開発される予定となっているが、アメリカと韓国政府は、ヨンサン基地の分割継続使用を要求しており、グリーンコリアをはじめとする多くの市民団体は、敷地内の深刻な環境汚染問題と合わせて、これに反対・抗議する運動を展開しているそうです。
砂川の大地から とどけ平和の声2017
現在製作中のドキュメンタリー映画「砂川の大地から(仮)」の取材&撮影で砂川へ〜♪
2017年11月19日、砂川学習館・講堂にて、米軍立川基地返還40周年記念16ミリ映画上映会と討論会「米軍基地の『返還』を問う」が開催され取材と撮影に伺わせていただきました(主催:「砂川の大地から とどけ平和の声2017」実行委員会)。
第一部の映画会では、東京都映像協会の1972年製作による15分の16ミリフィルムと、映画文化協会により1998年に製作された55分の16ミリフィルム「阿波根昌鴻 伊江島のたたかい」が上映されました。
第2部では、パネリストにレイクランド大学(日本校)准教授・社会学のA・トンプキンス先生、中央大学講師(社会学)の鈴木鉄忠先生、元航空自衛官で反戦兵士と連帯する会代表の小多基美夫さん、砂川平和ひろば主宰の福島京子さんを交えての自由討論会が開催されました。
最後に中央大学学生による阿波根昌鴻の言葉の朗読と、レイクランド大学の学生による先日亡くなったデニス・バンクスさんの言葉の朗読が行われました。
砂川平和ひろばを主宰する福島京子さんお父さまの宮岡政雄さんと交流のあった阿波根昌鴻さんは、砂川闘争の拠点であった団結小屋をヒントに、伊江島の米軍演習場の近くに団結道場をつくったそうです。
殺し合いではなく、助け合う。
奪い合いではなく、譲り合う。
いじめるのではなく教え合う。
それが実行できたとき、真の幸せが生まれてくる。
阿波根昌鴻さん(1901年〜2002年)
沖縄本島の上本部村(現、本部町)に生まれる。敗戦後、米軍占領地の伊江島の土地闘争では常に先頭に立ち、非暴力を貫く。復帰後も、一貫して軍用地契約に応じない反戦地主として闘った。66年、砂川闘争の拠点であった団結小屋をヒントに、伊江島の米軍演習場の近くに団結道場をつくり反基地闘争の拠点とする。84年には、反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」を建設し、沖縄戦の戦争体験・基地反対闘争の実態を展示や語りを通して広く社会に訴え続けた。
アメリカ・インディアン運動の指導者で青年時代に砂川闘争を目撃した デニス・バンクスさん。お会いできることを楽しみにしていましたが、11月の来日を前に、10月31日に亡くなられたことが報じられました。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
4回目のナワカミック・ジャパン・ツアーで来日予定だったデニスさん(ナワカミックはデニスさんのオリジナル名)は、来日を直前に天に召されました。NowaCumig Tokyo Gatheringにおけるメッセージがイベントの最後に紹介されました。
人間達だけではなく、私達を生かしてくれている、この星をも酷く苦しめた出来事がたくさんありました。
7世代先の子ども達が、戦争と憎しみの足跡をたどることがありませんように。
私たちは、築くことができる。
もし、お互いに思いやれるなら、私達は築くことができる。
もし、叫び訴えることができたなら、私達は築くことができる。
もし、コミュ二ケーションを取れたら、私達は築くことができる。
そして、もしも築くことができたら、私達は生きることができる。
複雑そうですが、とてもシンプルなこと。
築くことができたら、私達は歌うことができる。
これらの言葉はただのキャッチフレーズではありません。
今まで、ことあるごとに、違う言い方で、
ずっと、語り継がれてきたことなのです。
憎しみ、戦争と差別への勝利こそ私たちの未来です。
7世代先の未来がそのようでありますように。
※「砂川の大地から とどけ平和の声2017」実行委員会資料より
当時デニス・バンクスは、アメリカ軍の憲兵(MP)として、横田基地に勤務。1956年10月、警備支援のため一時立川基地に派遣されていた。その時、彼はフェンスの向こう側から、警察機動隊の棍棒で殴られ血を流して倒れる人々の姿を見ていた。土地を守るため抵抗する砂川の人々と、インディアンたちとの境遇が重なり、その後デニス・バンクスは人権・平和運動家へと転進していく。先月末(2017年10月31日)に亡くなるまで、彼はアメリカ・インディアン運動の原点といえる砂川に度々足を運んでいた。
デニス・バンクスさんの言葉(著書より)
私たちや、私たちを取り巻く環境は皆、自然の一部である。
すべてが命のつながりの中で生きていて、互いが互いを必要としている。
環境を大事にすることは、自分自身を大事にすることなのだ。
鷲やビーバーは、幾千年間同じ形で生をつないでいる。
七世代先の人々のことを考え、自分たちが受け継いだ生き方を子供たちに伝えよう。
滝の音や燃える火に心を傾けること。
幼い子供に話しかけること。
草木の生命に思いを馳せること。
それらは偉大な精霊と交わることである。
私たちを含めて、すべてが地球の住人なのだ。
空気、太陽、火、水、土 ------- すべては所有することができない。
偉大な精霊を、どうやって所有できるというのだろう。
火は、私たちが生きていくうえで欠かせないものである。
火は暖かさを与えてくれるだけでなく、生きる指針も与えてくれる。
火と対話しよう。
水や雨を大切にしよう。
水は私たちの考えを浄化してくれる。
雨は空気を浄化して、地の渇きをいやしてくれる。
私たちは水や雨なしでは生きられない。
地球にあるものは皆、それぞれ存在する意味と役割をもつ。
自然の音に耳を澄ませば、自然は私たちに色々なことを教えてくれる。
鳥の鳴き声に耳を澄ませば、自分の心がわかってくる。
魚の泳ぎに目を向ければ、自分自身の答えが見つかる。
花には生命を絶やさないようにするという役割がある。
花の美しさや色にもそれぞれの役割がある。
目標に向かう私たちに力を与えてくれ、未来への夢を広げてくれるのである。
目がないから見えないとは限らない。
耳がないから聞こえないとは限らない。
鳥、魚、花、木、すべてが私たちの話を聞いている。
彼らに向かって心を込めて話すこと。
寒い冬の日に、木々が話をするのが聞こえてくる。
私たちや、私たちの未来について話している。
いつでも木々を敬うこと。
木の枝がなければ花は咲かない。
木があってこそ森になり、その美しさも生まれるのだ。
なぜ木を倒したり、森を破壊したりするのだろう。
木は私たちに生命の息吹を与えてくれる。
鷲、鹿、ビーバー、すべてが自分たちの流儀で生きている。
それぞれがビジョンを持っている。
肝心なのは、他人をまねることなく自分自身のビジョンを持つことだ。
夢は私たちにストーリーを語り、ビジョンの源を与えてくれる。
私たちが得たビジョンは、また他の人の夢となる。
人々に良い夢を見せてあげることだ。
ひとりひとりの画家は夢をもっている。
一枚の絵には、何かが隠されている。
画家の語りかけに耳を傾け、自分たちと結びつきのある話を聞こう。
太鼓の音や人々の歌は、私たちの心臓の音だ。
私たちの心臓の音は、いつでも宇宙の鼓動を映している。
歌を歌いたくなくなったり、太鼓を打ちたくなくなれば、
誰も私たちの鼓動に耳を澄まさなくなるだろう。
知恵の種は、私たちの中心にある。
自分自身の中心に、汚れのない思考とよい水を与えること。
そうすれば、閉じた中心が開いてきて、知恵の実を結ぶことだろう。
私たちの未来は過去にある。
時は流れているのだから。
日々くりかえす行いこそが生活であり、文化を伝えることである。
年長者から知恵を学ばなければならない。
そして、それを実行しなければならない。
一日一日を生きていくことが、生きる目的なのだ。
日が暮れてしまったら生きる目的を失う、というわけではない。
年を重ねてから、幼いころのことや仲間のことを思い返す。
眼にも胸にも涙が浮かんでくる。
そんな時、人は幸せを感じ、その尊さを知る。
「風の知恵」 黒田征太郎/デニスバンクス著 毎日新聞社より引用
2017年11月02日
デニス・バンクスさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
今日はとてもショックでした。
現在製作中のドキュメンタリー映画『砂川の大地から』で、
来年、必ず撮影に伺いたいと思っていた米先住民運動の指導者で
砂川闘争の時に米軍基地におられたデニス・バンクス(80歳)さんが
亡くなられたという知らせを、本日いただきました。
29日、米中西部ミネソタ州ロチェスターの病院 で
肺炎のため亡くなられたそうです(米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)
お会いしたかったです…。
デニスさんの魂を少しでも現在製作中の
ドキュメンタリー映画『砂川の大地から』の中でも描けたら・・・
と思っています。
◎砂川の大地から
➡︎http://musevoice.com/sunagawa/
デニスさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
現在製作中のドキュメンタリー映画『砂川の大地から』で、
来年、必ず撮影に伺いたいと思っていた米先住民運動の指導者で
砂川闘争の時に米軍基地におられたデニス・バンクス(80歳)さんが
亡くなられたという知らせを、本日いただきました。
29日、米中西部ミネソタ州ロチェスターの病院 で
肺炎のため亡くなられたそうです(米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)
お会いしたかったです…。
デニスさんの魂を少しでも現在製作中の
ドキュメンタリー映画『砂川の大地から』の中でも描けたら・・・
と思っています。
◎砂川の大地から
➡︎http://musevoice.com/sunagawa/
デニスさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
2017年08月30日
ドキュメンタリー映画「砂川の大地から」 長谷川直樹さまに、心から感謝申し上げます〜!
▲長谷川直樹さまとしげ兄さん( 8/8 下北沢にて )
ドキュメンタリー映画「かけはし」でアドバイザーとしてお世話になった、長谷川直樹様に、第三作目となる「砂川の大地から」でもお力添えいただけることになりました。
「アドバイサーとしての協力の労は、おしみませんよ。遠い昔の砂川闘争を知らない普通の人たちに、福島京子さんの熱い思いをどう伝わるか。言い換えれば、映画を観た人に中村里美監督の思いが映像としてきちんと伝わるかだと思います。じっくり考えてやりましょう」
長谷川様よりメールをいただき、感謝の気持ちでいっぱいです。
長谷川様は、私が学校を卒業後に、まだまだ人生を模索していた頃、テレビの報道局社会部長をされていて、長谷川さまのもとで約1年間契約社員としてお世話になりました。
あの時、長谷川様から言われていた仕事の一つが、毎朝出社した後、すべての大手新聞に目を通して、反戦・反核などの記事の切り抜きをして、スクラップブックに整理することでした。
それまで、新聞をちゃんと読んだこともないような自分だったので、せめて、自分が切り抜いた新聞に目を通そうと思って読んでいた時、「若者ボランティアいませんか?」という、バークシャーコミュニティーカレッジの平和学教授だったレイスロップご夫妻と日本で教師をする北浦葉子さんが日米協力草の根プロジェクト「ネバー・アゲイン・キャンペーン( NAC)」の民間平和大使を呼びかける記事が目にとまりました。
その記事を見たことがきっかけとなり、31年前、アメリカの学校や教会などで約一年間ヒロシマ・ナガサキの原爆映画上映会をしたことが今の自分の原点となっています。
もし、あの時、長谷川様のもとでお仕事させていただいていなかったら・・・「いのちの音色」ライブも、ライブの中で歌っている歌も、映画「アオギリにたくして」も何も生まれていなかったことを思う時、人はきっかけで変わっていくと強く改めて思います。
人生を生きる中でしみじみ思うことは、
自分の力で出来ることなど実はたかがしれているということ。
きっかけを与えてくださった方々や、いろんな体験をさせてくださった方々への感謝。成功だけでなく失敗の中にこそ多くの学びがあり、何一つ無駄なことはない。あるのは心からの感謝のみ。
そして、一番最初の一つ一つがいつの間にか形をつくっていく。
自分の頭の中だけで描いたことや、学んだ知識だけで考えた机上の空論は、本当に大事なことが見失われがち。
動きながら、走りながら考える中で、知恵を授かり、本当に見えて来るものがある。
母がよく言っていた。
人生には良い時も悪い時もある。いい時は、誰もが良くしてくれるし、してあげられる。でも、ひとたび状況が悪い時にこそ真価が問われる。人が本当に困っている時にこそ、手を差し伸べ助けてあげらえる器のある人間になりなさい。
自分にはまだまだ器がなく、ただただ必死な毎日。
一番苦しい時を、ハートで支えてくださっているたくさん皆様との出会いをいただき、改めて母の言葉が身にしみます。
そして、今は支えていただくばかりですが、いつか自分も支えていく存在になれるよう、初心を忘れず、プロセスに心を通わせながら、目標に向かって突き進みながらもっともっと成長していけるようがんばっていきたいと思います。
長谷川様はじめ、ご支援・ご協力くださり、応援してくださっている皆さまに改めて心より感謝申し上げます。
本当にありがとうございます!!がんばります〜!!よろしくお願い申し上げます。
2017年08月19日
第3作目ドキュメンタリー映画「砂川〜大地の記憶〜」公式ウェブサイト
映画「アオギリにたくして」
ドキュメンタリー映画「かけはし」に続く
ミューズの里の第3作目となる
ドキュメンタリー映画「砂川の大地から」公式HPを
渡川修一さんが作ってくださいました。
渡川さん、ありがとうごさいます〜!!
◎ドキュメンタリー映画「砂川の大地から」公式ウェブサイト
➡︎ http://musevoice.com/sunagawa/
この度の第三弾となる「砂川の大地から」では、
これまで共に企画・製作・音楽・プロデュースを行ってきた
伊藤茂利と共に監督を務めさせていただきます。
映画「アオギリにたくして」で大変お世話になり
映像の世界で活躍されている中根克様に
撮影でお力添えをいただいております。
また、映画「アオギリにたくして」撮影監督で
撮影技師の倉本和人さんが撮影特別協力を
してくださることになりました。
編集は、ドキュメンタリー映画「かけはし」の
予告編制作でもお世話になった
ドキュメンタリー映画「ハダカの城」の監督
柴田誠様にお力添えいただきお願いすることになりました。
映画「アオギリにたくして」でお世話になった
大久保憲一弁護士が制作顧問を引き受けてくださり、
ドキュメンタリー映画「かけはし」でお世話になった
長谷川直樹様に撮影&編集アドバイザーとして
ご協力をいただけることになりました。
完成に向けて、スタッフ一同全力を尽くします。
今後とも皆様のご支援・ご協力を何卒よろしくお願い申し上げます。
砂川平和ひろば「浅間山米軍演習地化反対運動の語り部のお話」
現在製作中の第三作目となる
ドキュメンタリー映画「砂川の大地から」
砂川の大地では、
12日に撒いたお蕎麦が、雨続きの中、
立派に発芽して成長しているようとの
ご報告が福島京子さんよりありました。
▲撮影:福島京子 砂川の大地に育つ蕎麦
暑い中、砂川平和ひろばの改装工事がつづいています。
そして、明日は、砂川平和ひろば主宰の軽井沢ツアー。
軽井沢町の堀辰雄文学記念館前にて集合です。
13:00より「浅間山米軍演習地化反対運動を学ぶ」
語り部:荒井輝允さん(浅間山米軍演習地化反対期成同盟 青年団)
15:30より 追分宿見学(午前に続き)か、軽井沢歴史民俗資料館 解散
鳩山家別荘見学(砂川闘争の時、婦人たちが抗議行きました)
明日早朝、立川で車に乗せていただき軽井沢に向かい、
砂川ひろばの皆様に同行取材・撮影させていただきます。
============================
軽井沢研修資料
−浅間山米軍演習地化反対闘争を学ぶツアー
(砂川平和ひろばの張さんより)
============================
朝鮮戦争の最中の1953年4月。浅間山の麓に位置する長野県軽井沢町周辺の住民は、突然の米軍演習地の設置通告に騒然となった。聖なる浅間山に生きる人々にとってこの通告はまさに晴天の霹靂であった。
当時のアメリカ軍−正確にはUN軍−は圧倒的な軍事力でもって中国の国境付近まで北朝鮮を攻め込むも、これに危機を感じた中国側が血盟関係の北朝鮮に大軍を派兵すると戦況は一気に逆転する。その結果、ふたたびソウルが陥落し、戦争は長期消耗戦の兆しを見せ始めていた。アメリカ軍は想定外の酷寒の山岳戦に辛酸をなめ、甚大な人命損失を葬っていた。この朝鮮半島の戦況に連動し、アメリカは急遽日本に冬季の山岳戦闘演習地設置に取り掛かり、その候補地として浅間山が日米安全保障条約の名の下で決められたのである。
朝鮮戦争が始まって1年3ヶ月が過ぎた1951年9月。西邦世界だけの参加するサンフランシスコ講和条約が締結され、日本は主権国家として国際社会に復帰することができた。が、しかしそれは歪められた戦後体制のはじまりでもあった。以来、いわゆる日米安全保障条約における日米地位協定は、日本列島のアメリカ軍基地化を容認する呪縛となっていった。
ところが、泥沼化する戦況に焦りを見せていたUN軍総司令官マッカーサー。彼はついに核兵器使用を主張するに至る。しかし、これは三度の世界大戦−しかも核戦争に−エスカレーターする危険性を大いに孕んでいた。こればかりは避けようとアメリカ政府はマッカーサーを解任し、停戦協定を結んで戦争状態から脱する方向へと舵を切り替える。結果、1953年の7月27日板門店にて停戦協定書に署名が交わされ、ようやく朝鮮半島は戦争の「一旦停止状態」へと転換し、現在に至っている。このように、最も緊迫した朝鮮半島情勢のど真ん中で起きたのが「浅間山米軍演習地化反対闘争」であったが、その展開は予想をはるかに超える形を見せていた。強力な結衆の力は日米安保条約の盾を突き破り、地元住民側の電撃的な勝利となったのである。通告から僅か4ヶ月足らずの出来事であった。
地域が一気に「結衆」し、素早く世論を軽井沢に向かわせ、「200万人」の賛同者たちを得るまで数ヶ月も要しなかった「浅間山米軍演習地化反対闘争」。この闘争の本質はどこにあり、勝利の背景に何があったのか。また、この歴史的な勝利が何故人々の記憶から消えていってしまったのか。これらの謎を解くすべての手がかりが浅間山麓の現地にある!
私たちは信じてやまない。この厳然たる反基地闘争の水脈が大地を伝わって武蔵野の砂川にまで流れていることを。そして戦後の「闘争時代」に、今に活かすべき光が潜んでいることを・・・。
砂川ひろば
ドキュメンタリー映画「砂川の大地から」
砂川の大地では、
12日に撒いたお蕎麦が、雨続きの中、
立派に発芽して成長しているようとの
ご報告が福島京子さんよりありました。
▲撮影:福島京子 砂川の大地に育つ蕎麦
暑い中、砂川平和ひろばの改装工事がつづいています。
そして、明日は、砂川平和ひろば主宰の軽井沢ツアー。
軽井沢町の堀辰雄文学記念館前にて集合です。
13:00より「浅間山米軍演習地化反対運動を学ぶ」
語り部:荒井輝允さん(浅間山米軍演習地化反対期成同盟 青年団)
15:30より 追分宿見学(午前に続き)か、軽井沢歴史民俗資料館 解散
鳩山家別荘見学(砂川闘争の時、婦人たちが抗議行きました)
明日早朝、立川で車に乗せていただき軽井沢に向かい、
砂川ひろばの皆様に同行取材・撮影させていただきます。
============================
軽井沢研修資料
−浅間山米軍演習地化反対闘争を学ぶツアー
(砂川平和ひろばの張さんより)
============================
朝鮮戦争の最中の1953年4月。浅間山の麓に位置する長野県軽井沢町周辺の住民は、突然の米軍演習地の設置通告に騒然となった。聖なる浅間山に生きる人々にとってこの通告はまさに晴天の霹靂であった。
当時のアメリカ軍−正確にはUN軍−は圧倒的な軍事力でもって中国の国境付近まで北朝鮮を攻め込むも、これに危機を感じた中国側が血盟関係の北朝鮮に大軍を派兵すると戦況は一気に逆転する。その結果、ふたたびソウルが陥落し、戦争は長期消耗戦の兆しを見せ始めていた。アメリカ軍は想定外の酷寒の山岳戦に辛酸をなめ、甚大な人命損失を葬っていた。この朝鮮半島の戦況に連動し、アメリカは急遽日本に冬季の山岳戦闘演習地設置に取り掛かり、その候補地として浅間山が日米安全保障条約の名の下で決められたのである。
朝鮮戦争が始まって1年3ヶ月が過ぎた1951年9月。西邦世界だけの参加するサンフランシスコ講和条約が締結され、日本は主権国家として国際社会に復帰することができた。が、しかしそれは歪められた戦後体制のはじまりでもあった。以来、いわゆる日米安全保障条約における日米地位協定は、日本列島のアメリカ軍基地化を容認する呪縛となっていった。
ところが、泥沼化する戦況に焦りを見せていたUN軍総司令官マッカーサー。彼はついに核兵器使用を主張するに至る。しかし、これは三度の世界大戦−しかも核戦争に−エスカレーターする危険性を大いに孕んでいた。こればかりは避けようとアメリカ政府はマッカーサーを解任し、停戦協定を結んで戦争状態から脱する方向へと舵を切り替える。結果、1953年の7月27日板門店にて停戦協定書に署名が交わされ、ようやく朝鮮半島は戦争の「一旦停止状態」へと転換し、現在に至っている。このように、最も緊迫した朝鮮半島情勢のど真ん中で起きたのが「浅間山米軍演習地化反対闘争」であったが、その展開は予想をはるかに超える形を見せていた。強力な結衆の力は日米安保条約の盾を突き破り、地元住民側の電撃的な勝利となったのである。通告から僅か4ヶ月足らずの出来事であった。
地域が一気に「結衆」し、素早く世論を軽井沢に向かわせ、「200万人」の賛同者たちを得るまで数ヶ月も要しなかった「浅間山米軍演習地化反対闘争」。この闘争の本質はどこにあり、勝利の背景に何があったのか。また、この歴史的な勝利が何故人々の記憶から消えていってしまったのか。これらの謎を解くすべての手がかりが浅間山麓の現地にある!
私たちは信じてやまない。この厳然たる反基地闘争の水脈が大地を伝わって武蔵野の砂川にまで流れていることを。そして戦後の「闘争時代」に、今に活かすべき光が潜んでいることを・・・。
砂川ひろば
2017年08月15日
砂川平和ひろば「壁開け式」
2017年07月31日
福島京子さんと砂川平和ひろばに集うみなさんと一緒に見た「平和花火」
7/29
ドキュメンタリー映画「砂川の大地から」
撮影のため砂川平和ひろばへ〜!
立川花火大会にあわせて
砂川の畑でとれた無農薬の枝豆を茹で、
トウモロコシでポップコーンをつくり、
砂川平和ひろばと&畑のお手伝いをされているシルバーの皆様の
共済による飲食販売。
雨の中、
砂川平和ひろばの目の前に、
大きな見事な花火が上がりました〜!
砂川闘争の跡地で
福島京子さんと砂川平和ひろばに集う
みなさんと一緒に見る
平和花火〜!
花火の後、みんなで乾杯〜♪
この日は、初プロデュース作品の映画「アオギリにたくして」制作委員会のメンバーで、東日本大震災の翌年の3・11に行われた福島ロケでは、スタッフや機材を乗せて車で同行くださり、エキストラとしてもご出演くださった田中正栄社長もご参加くださいました。
皆様に心より感謝申し上げます。
2017年07月29日
新井章弁護士に砂川闘争の貴重なお話を伺いました。
2017年07月19日
『山梨平和ミュージアム (石橋湛山記念館)』浅川保館長が砂川平和ひろばへ
ドキュメンタリー映画「砂川の大地から」
7月17日、撮影のため砂川平和ひろばへ。
▲砂川平和ひろば 主宰:福島京子さん
昨年、『山梨平和ミュージアム (石橋湛山記念館)』に福島京子さんはじめ砂川平和ひろばの関係者の皆様が訪れたことがきっかけとなり、館長の浅川保さんが、砂川平和ひろばへ。
浅野館長は、高校教員をリタイア後、
歴史的事実を後世に遺し語り継ぐため、
退職金をなげうって「平和ミュージアム」の場所を確保。
公的な支援は受けられなかったものの、
その後、多くの寄付が集まり、
市民の資料から、戦争の実像を伝える平和の拠点として地域に根づく
『山梨平和ミュージアム (石橋湛山記念館)』が誕生した。
結果的に、縛りがない方が自由な発信をすることができ、
今後の砂川平和ひろばの在り方を考える上で。
とても良いお話がかわされました。
砂川闘争だけでなく、
五日市憲法、自由民権運動など、
平和を発信してきた多摩地域を
より掘り下げながら、
平和の発信をしていく
砂川平和ひろばのこれからの姿について
熱いトークが交わされました。
7月17日、撮影のため砂川平和ひろばへ。
▲砂川平和ひろば 主宰:福島京子さん
昨年、『山梨平和ミュージアム (石橋湛山記念館)』に福島京子さんはじめ砂川平和ひろばの関係者の皆様が訪れたことがきっかけとなり、館長の浅川保さんが、砂川平和ひろばへ。
浅野館長は、高校教員をリタイア後、
歴史的事実を後世に遺し語り継ぐため、
退職金をなげうって「平和ミュージアム」の場所を確保。
公的な支援は受けられなかったものの、
その後、多くの寄付が集まり、
市民の資料から、戦争の実像を伝える平和の拠点として地域に根づく
『山梨平和ミュージアム (石橋湛山記念館)』が誕生した。
結果的に、縛りがない方が自由な発信をすることができ、
今後の砂川平和ひろばの在り方を考える上で。
とても良いお話がかわされました。
砂川闘争だけでなく、
五日市憲法、自由民権運動など、
平和を発信してきた多摩地域を
より掘り下げながら、
平和の発信をしていく
砂川平和ひろばのこれからの姿について
熱いトークが交わされました。
2017年06月28日
ドキュメンタリー映画「砂川〜大地の記憶〜」制作顧問の大久保賢一弁護士と共に「砂川平和ひろば」へ
2017年7月26日、第3作目となる製作中のドキュメンタリー映画「砂川の大地から」の制作顧問としてお力添えいただいている日本反核法律家協会事務局長で弁護士の大久保賢一先生と共に、福島京子さんに会いに「砂川平和ひろば」に伺いました。
▲砂川平和ひろば
▲砂川闘争では反対農家の中心的存在だった故・宮岡政雄さんの次女として生まれ、守り抜いた土地で「砂川平和ひろば」を主宰する福島京子さん。
「砂川平和ひろば」から徒歩数分のところにある「砂川秋まつりひろば」に、福島京子さんが一昨年植樹した被爆アオギリ2世・3世に会いに行きました。
▲「砂川秋まつりひろば」に2015年に植樹された被爆アオギリ2世
「砂川秋まつりひろば」について (文:木を植える会)
このひろばは、むかし米軍の基地になるはずだった土地に作られました。1950年代の砂川闘争によって、政府は立川基地拡張をあきらめましたが、国に買収された多くの土地が砂川に残されました。1990年ごろに、この場所を国はフェンスで囲おうとしました。しかし、「砂川にフェンスはにあわない」と市民たちが声をあげ、現在まで「木を植える会」がひろばとして草刈りや遊具の整備をつづけています。毎年秋まつりが開催され、市民に親しまれています。
アオギリは、すくすく元気に砂川で大きく成長していました〜♪
砂川の大地から平和を〜!
▲砂川平和ひろば
▲砂川闘争では反対農家の中心的存在だった故・宮岡政雄さんの次女として生まれ、守り抜いた土地で「砂川平和ひろば」を主宰する福島京子さん。
「砂川平和ひろば」から徒歩数分のところにある「砂川秋まつりひろば」に、福島京子さんが一昨年植樹した被爆アオギリ2世・3世に会いに行きました。
▲「砂川秋まつりひろば」に2015年に植樹された被爆アオギリ2世
「砂川秋まつりひろば」について (文:木を植える会)
このひろばは、むかし米軍の基地になるはずだった土地に作られました。1950年代の砂川闘争によって、政府は立川基地拡張をあきらめましたが、国に買収された多くの土地が砂川に残されました。1990年ごろに、この場所を国はフェンスで囲おうとしました。しかし、「砂川にフェンスはにあわない」と市民たちが声をあげ、現在まで「木を植える会」がひろばとして草刈りや遊具の整備をつづけています。毎年秋まつりが開催され、市民に親しまれています。
アオギリは、すくすく元気に砂川で大きく成長していました〜♪
砂川の大地から平和を〜!
2017年06月25日
ドキュメンタリー映画「砂川の大地から」製作顧問として、大久保賢一先生がご協力くださることになりました〜!
映画「アオギリにたくして」では、大変お世話になった弁護士で日本反核法律家協会事務局長の大久保賢一先生に、現在製作中のドキュメンタリー映画「砂川の大地から」でもご協力いただけることになり、製作顧問をしてくださることになりました。心より感謝申し上げます。
大久保賢一先生にはじめてお会いしたのは、まだ映画づくりを始める前のこと。
映画「アオギリにたくして」が生まれる原点ともなる歌と語りでヒロシマ・ナガサキを伝えるライブを始めたばかりの頃です。
目黒のライブカフェで行われたライブの後に行ったパネルディスカッションに、大久保先生が今は亡き被団協の伊藤直子さんと共にご出演してくださいました。
1000回ライブを目指して、スタートしたばかりの第6回目のライブでした。
▲ライブの翌日(2009年8月8日)掲載記事(朝日新聞)
※画像をクリックすると大きくなります。
あれから、8年‥‥。
「いのちの音色」と名付けられた歌と語りでヒロシマ・ナガサキを伝えるピースライブは、200回公演を超え、まだまだ1000回ライブまでには及びませんが、これからも一つ一つのライブに魂を込めて歌い続けていきたいと思います。
ライブの中で被爆体験の朗読をさせていただいていた沼田鈴子さんが亡くなられた翌年の2012年、沼田さんをモデルとした映画「アオギリにたくして」製作をスタートする時、大久保賢一先生にご相談しました。
はじめての映画製作は、大変なことの連続でしたが、共にプロデュースをしてくれた伊藤茂利さんと共に、何から何まで自分たちで動いて行ったことで、映画づくりとは何か、上映活動とは何かを知るとても貴重な体験をさせていただきました。何かおかしなことや許しがたいことが起きた時も、きちんと物事の本質を見極めて常に冷静に的確なアドバイスをしてくださり、大久保先生がいつも見守ってくださいました。
ドキュメンタリー映画「砂川の大地から」でもお世話になることになり、改めて心より感謝申し上げます。
いつもいつも見守っていただき、本当にありがとうございます。
大久保賢一先生にはじめてお会いしたのは、まだ映画づくりを始める前のこと。
映画「アオギリにたくして」が生まれる原点ともなる歌と語りでヒロシマ・ナガサキを伝えるライブを始めたばかりの頃です。
目黒のライブカフェで行われたライブの後に行ったパネルディスカッションに、大久保先生が今は亡き被団協の伊藤直子さんと共にご出演してくださいました。
1000回ライブを目指して、スタートしたばかりの第6回目のライブでした。
▲ライブの翌日(2009年8月8日)掲載記事(朝日新聞)
※画像をクリックすると大きくなります。
あれから、8年‥‥。
「いのちの音色」と名付けられた歌と語りでヒロシマ・ナガサキを伝えるピースライブは、200回公演を超え、まだまだ1000回ライブまでには及びませんが、これからも一つ一つのライブに魂を込めて歌い続けていきたいと思います。
ライブの中で被爆体験の朗読をさせていただいていた沼田鈴子さんが亡くなられた翌年の2012年、沼田さんをモデルとした映画「アオギリにたくして」製作をスタートする時、大久保賢一先生にご相談しました。
はじめての映画製作は、大変なことの連続でしたが、共にプロデュースをしてくれた伊藤茂利さんと共に、何から何まで自分たちで動いて行ったことで、映画づくりとは何か、上映活動とは何かを知るとても貴重な体験をさせていただきました。何かおかしなことや許しがたいことが起きた時も、きちんと物事の本質を見極めて常に冷静に的確なアドバイスをしてくださり、大久保先生がいつも見守ってくださいました。
ドキュメンタリー映画「砂川の大地から」でもお世話になることになり、改めて心より感謝申し上げます。
いつもいつも見守っていただき、本当にありがとうございます。
2017年06月21日
ドキュメンタリー映画『砂川の大地から』製作に向けて
監督をさせていただく、ドキュメンタリー映画「砂川の大地から」の製作にむけて、昨年より撮影・取材をスタートしています。
砂川闘争から60年を迎えた2015年秋、「砂川秋まつりひろば」に広島平和記念公園の被爆アオギリの種から育った2世・3世の苗が植樹されました。このひろばは、むかし米軍の基地になるはずだった土地に作られました。1955年にはじまった砂川闘争は、地元の人たちが旧米軍立川基地の拡張計画に反対し、米軍基地を撤退させた唯一の住民運動です。政府は立川基地拡張をあきらめましたが、国に買収された多くの土地が砂川に残されました。1990年ごろに、この場所を国はフェンスで囲おうとしましたが、「砂川にフェンスはにあわない」と市民たちが声をあげ、現在まで「木を植える会」の皆様が草刈りや遊具の整備をつづけ、フェンスの代わりに椿の垣根をつくり、毎年秋まつりが開催され、市民に親しまれているひろばです。
被爆アオギリ2世・3世の植樹を企画してくださった福島京子さんは、砂川闘争の反対農家の中心だった故・宮岡政雄さんの次女として生まれました。宮岡さんは、地元の反対同盟の副行動隊長を務め、六法全書を読みながら独学で理論武装し、「砂川の法務大臣」とも呼ばれていました。宮岡さんは、戦後の憲法がある限り、必ずこの戦いに勝てると確信を持っていました。農地を守り、戦争につながることはしたくないという強い信念を持つご両親の姿を見て京子さんは育ちました。
ご両親の生き様を見続けてきた京子さんが語る砂川闘争は、Wikipediaや参考資料からは決して感じることの出来ない温度を心に伝え、今一度「砂川闘争」を今と結びつけ、また自分と結びつけて感じることの大切さを教えてくれます。
国の土地買収に応じる農家もある中で、福島さんの父・宮岡さんは立ち退きを拒否して裁判闘争を続けました。そして、米軍基地が返還されることになった5年後(1982年)、69歳で亡くなりました。
一人ひとりが尊重される世界を何より大切にしていた父の残した農園の一角に、京子さんは母と二人で「砂川平和ひろば」を開設(2010年)。旧米軍立川基地の拡張計画を住民たちが阻んだ「砂川闘争」で住民らと警官隊の衝突の舞台となった農地に、京子さんは人々が語り合う場をつくり、平和・郷土・農業など様々なテーマで交流しながら、砂川から平和を発信しています(基地拡張を防いだ農地で野菜を育ててきた妻キヌ子さんも2014年に94歳で亡くなりました)。
福島京子さんの取材を続ける中で、京子さんの思いは、初プロデュース作品「アオギリにたくして」のモデルとなった被爆者の故・沼田鈴子さんの思いと重なり、そして、振り返れば自身の原点ともなるヒロシマ・ナガサキの被爆者のメッセージを米国で伝え歩いた体験とも重なりました。
31年前にアメリカを訪れていた時、ネバダの核実験場の近隣に住む子供たちの白血病との因果関係が取りざたされ、全米のお母さんたちがネバダの砂漠に集って核実験反対を唱え、砂漠の中でのピースキャンプが開催される中で、10フィート運動から生まれた原爆フィルム「にんげんをかえせ」を上映させていただきました。
あの時、ネバダの核実験場の前でスピーチしたネイティブアメリカンの母なる大地への思い、日本山妙法寺のお上人様たちが奏でる太鼓の音‥‥。その日、たくさんのお母さんとお父さんが、おばあちゃんが、おじいちゃんが、入ってはいけない危険区域の有刺鉄線を乗り越え、手をつなぎながら、ゆっくりと核実験場に向かって歩き出しました。自分の身の危険をかえりみず子供たちの命を守ろうとする人々。ゆっくりと歩きながら、歌いながら、手錠のかけられた両手を上に掲げ、踊りながら‥‥逮捕されていきました。当日の様子を取材してい私は、カメラのシャッターを切りながら、涙が溢れてとまらなかった。あの日の記憶は、今も脳裏に焼き付いています。
広島・長崎に投下された原子爆弾に使われたウランは、ネイティブアメリカンの聖なる大地から掘り起こされたものでした。そして、ラスベガスの北西100kmにある先住民族の人たちの母なる大地だったネバダの砂漠には核実験場が作られ、1951年から1992年までに大気圏内だけでも100回の核実験が行われました。
「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」
61年前の砂川闘争の非暴力不服従への思が、31年前に訪れたネバダの砂漠で出会った人々の姿と重なりました。
1977年、旧立川米軍基地は拡張されることなく、立川から撤退、跡地は返還されました。
最後まで戦い抜いた23件の砂川の農家の皆さんの強い思いの底に流れていたものとは? 福島京子さんがご両親の姿を通して見てきた砂川闘争とは?
砂川闘争の種から芽生えた精神は、国境を超えた希望の連鎖を繋いでいます。フェンスの向こう側で米軍基地の中から無抵抗のまま打ちのめされる人々を見ていた一人の米兵デニス・J・バンクス氏は、砂川を守ろうとする人々の姿に触発され、帰国後「アメリカンインディアン運動」創始者となり、平和と文化保存、持続可能な環境を守るための活動を続けています。
過去と未来をつなぐ今を生きる私たちにが決して忘れてはならない 人間としての魂の叫びを、ドキュメンタリー映画「砂川の大地から」の中で描くことができたなら‥‥。
福島京子さんとの出会いは、映画「アオギリにたくして」の生まれた原点やこれまでお世話になってきたヒロシマ・ナガサキの被爆者の方々の心の叫びが、偶然ではない必然の出会いをもたらせてくれたかのように思えてなりません。
「アオギリにたくして」「かけはし」に続く、第三作目となるドキュメンタリー映画「砂川の大地から」の完成に向けて、皆様のご支援・ご協力を何卒よろしくお願い申し上げます。
2017年06月16日
ドキュメンタリー映画「砂川の大地から」麦刈り、脱穀の取材へ
これまでの企画・製作・プロデュース・音楽に加え、この度はしげ兄さんと共に初の監督に挑戦させていただく現在製作中のドキュメンタリー映画「砂川の大地から」では、砂川の大地から平和を発信し続ける福島京子さんの姿を追っています。
福島京子さんのご両親は、旧米軍立川基地の拡張予定地で農家を営まれていました。地元の反対同盟の副行動隊長をされていた故・宮岡政雄さんの次女として生まれ、元教師だった京子さんは、今は亡き両親への思いを胸に、砂川の大地からで農作物をつくりながら平和を発信しつづけています。
▲福島京子さん(左)。砂川闘争で、住民らと警官隊の衝突の舞台となった農地。京子さんは、両親が守り抜いた土地で小麦など農作物を育てながら、砂川闘争の意義を伝えている。
6/14 京子さんの畑の麦刈りに伊藤カメラマン(しげ兄)が砂川へ伺わせていただき、翌日15日の脱穀の撮影に私も伺わせていただきました。
砂川闘争から60年を迎えた一昨年、この農地の近くにある砂川秋まつり広場に、被爆アオギリ2世・3世の苗が植樹されました。その時はまだ、福島京子さんと出会う前のことでした。
福島さんは、植樹式の時に「アオギリにたくして」の歌を流したいと、オフィスにお電話をくださっていたそうで、当日はCDで歌を流しながら、被爆アオギリ2世・3世の苗の植樹が砂川で行われたことを後から知りました。
31年前、アメリカの学校や教会等で日本文化紹介と共に原爆フィルム「にんげんをかえせ」等の上映ボランティア活動をしていた時にお世話になったジャーナリストの北岡和義さんが、砂川での植樹式に参加されていました。
流れてくる「アオギリにたくして」の歌を聴いて、北岡さんが我々のことを福島さんに話してくださったことがきっかけとなり、出会いをいただきました。
アオギリのご縁でつながり、第3作目となるドキュメンタリー映画がスタートしています。ドキュメンタリー映画「砂川の大地から」皆様のご支援・ご協力を何卒宜しくお願い申しあげます。
2017年06月14日
インスタデビューしたしげ兄さん
6/14本日夜10:25分からのNHK「総合診療医 ドクターG」に、しげ兄さんの主治医の勝俣範之先生がゲスト出演されます( ※ 6/17土曜日の午前10時5分から再放送されます)。
そして、ついでに?! しげ兄さんも?!
たまたま診療日にNHKの取材が入り、ちょこっとだけ しげ兄さんも出ているようです。
何より感謝すべきことは、信頼できるお医者さまとの出会いによって、しげ兄さんが安心して抗がん剤治療に取り組むことができていること。「わがままな患者であれ」をモットーとして接してくださる勝俣先生の腫瘍内科医師としての覚悟ある取り組み方に、「この先生と共にがんばろう!」と思えることが、これほど患者の気持ちを強くするのだと感じます。
勝俣先生の存在に、人間として、人の心の痛みを知り、しっかりと受け止め、心で接し、コミュニケーションすることの出来る器を備えることがいかに大切かを感じます。その上での才能や能力であり、それはどの分野であれ、必須なものだと感じます。
しげ兄が緊急入院してから、6ヶ月が過ぎました。
生きることについて、死について、仕事について、生き方について考える機会となりました。
誰もが限られたいのちを生きている。その限られた時間の中で、どう生きるのか?
日頃から何となく考えているつもりでも、突き詰められる体験を通して、よりクリアに見えてくるものがある。
今までとちっとも変わらない日常が続いているけれど、でも、より本質的なところにダイレクトに立ち向かわされる機会を得たことで、きっと今までとはちょっと違う。
これからつくる映画も、これからつくる音楽も、会社のあり方も、動き方も、そして自分自身の声も、変わっていくことだろう。
しげ兄さんが生きていてよかった。本当によかった。本当に。
「病気をしたことにも感謝!」としげ兄さん。
▲第三作目となるドキュメンタリー映画「砂川の大地から」の取材&撮影中のしげ兄さん
そうそう、最近はインスタデビューした しげ兄さん。
その写真がなかなかいい!!
是非、お時間あればときどき覗いてみてください〜♪
◎しげ兄さんのインスタ
https://www.instagram.com/shigetoshiito/
自分らしさに磨きをかけて、これからもますます挑戦し続けて欲しい!
次回の映画作品より、しげ兄と共に企画・製作・プロデュース、そして監督に挑みます!
しげ兄、ファイト〜!
皆様のご支援・ご協力を何卒宜しくお願い申しあげます。
そして、ついでに?! しげ兄さんも?!
たまたま診療日にNHKの取材が入り、ちょこっとだけ しげ兄さんも出ているようです。
何より感謝すべきことは、信頼できるお医者さまとの出会いによって、しげ兄さんが安心して抗がん剤治療に取り組むことができていること。「わがままな患者であれ」をモットーとして接してくださる勝俣先生の腫瘍内科医師としての覚悟ある取り組み方に、「この先生と共にがんばろう!」と思えることが、これほど患者の気持ちを強くするのだと感じます。
勝俣先生の存在に、人間として、人の心の痛みを知り、しっかりと受け止め、心で接し、コミュニケーションすることの出来る器を備えることがいかに大切かを感じます。その上での才能や能力であり、それはどの分野であれ、必須なものだと感じます。
しげ兄が緊急入院してから、6ヶ月が過ぎました。
生きることについて、死について、仕事について、生き方について考える機会となりました。
誰もが限られたいのちを生きている。その限られた時間の中で、どう生きるのか?
日頃から何となく考えているつもりでも、突き詰められる体験を通して、よりクリアに見えてくるものがある。
今までとちっとも変わらない日常が続いているけれど、でも、より本質的なところにダイレクトに立ち向かわされる機会を得たことで、きっと今までとはちょっと違う。
これからつくる映画も、これからつくる音楽も、会社のあり方も、動き方も、そして自分自身の声も、変わっていくことだろう。
しげ兄さんが生きていてよかった。本当によかった。本当に。
「病気をしたことにも感謝!」としげ兄さん。
▲第三作目となるドキュメンタリー映画「砂川の大地から」の取材&撮影中のしげ兄さん
そうそう、最近はインスタデビューした しげ兄さん。
その写真がなかなかいい!!
是非、お時間あればときどき覗いてみてください〜♪
◎しげ兄さんのインスタ
https://www.instagram.com/shigetoshiito/
自分らしさに磨きをかけて、これからもますます挑戦し続けて欲しい!
次回の映画作品より、しげ兄と共に企画・製作・プロデュース、そして監督に挑みます!
しげ兄、ファイト〜!
皆様のご支援・ご協力を何卒宜しくお願い申しあげます。
2017年05月23日
しげ兄さん登場〜!
昨年から製作中のドキュメンタリー映画「砂川の大地から」。
5/21に行われた砂川のフィールドワークの取材と撮影には、しげ兄さんも登場〜♪
1クール目の抗がん剤治療を終えて、今のところひどい副作用もなく、無理のないように静養しながら仕事をしているしげ兄さんですが、オフィスでたからプロデューサーと再会し、ご一緒に登場されました。
昨年対談させていただいたノンフィクション作家の高瀬毅先生とも現地で再会。しげ兄のことをとても心配してくださっていた主宰の福島京子さんとしげ兄さんの再会も感動的でした〜♪
砂川闘争の現地を歩くフィールドワークに初参加のTakaraプロデューサー。
犬の参加は初めてのようです。
皆様に大変お世話になり、心より感謝申し上げます。
5/21に行われた砂川のフィールドワークの取材と撮影には、しげ兄さんも登場〜♪
1クール目の抗がん剤治療を終えて、今のところひどい副作用もなく、無理のないように静養しながら仕事をしているしげ兄さんですが、オフィスでたからプロデューサーと再会し、ご一緒に登場されました。
昨年対談させていただいたノンフィクション作家の高瀬毅先生とも現地で再会。しげ兄のことをとても心配してくださっていた主宰の福島京子さんとしげ兄さんの再会も感動的でした〜♪
砂川闘争の現地を歩くフィールドワークに初参加のTakaraプロデューサー。
犬の参加は初めてのようです。
皆様に大変お世話になり、心より感謝申し上げます。
砂川の大地の記憶とネバダの砂漠の記憶
第3作目は、砂川の大地の記憶を追っている。
なぜだろう? 何が自分の魂をゆさぶっているのだろう。
きっともう少ししたら、その訳がきっとわかるような気がしている。
遠い記憶が蘇る。
31年前、ネバダの核実験場のゲートの前で、10フィート運動で生まれた原爆映画「にんげんをかえせ」を上映し、砂漠にテントを張って滞在していた時のことが。
広島・長崎に投下された原子爆弾に使われたウランはネイティブアメリカンの聖なる大地から掘り起こされたものだった。
そして、ラスベガスの北西100kmにあるネバダ実験場では、1951年から1992年までに大気圏内だけでも100回の核実験が行われた。そこは、ショショニと呼ばれる先住民族の人たちの母なる大地だった…。
砂川に行くたびに、31年前のあの時受けた強烈な感覚が蘇ってくる。
被爆アオギリ2世・3世が一昨年植樹された砂川秋まつりひろば
2017年05月22日
武蔵野の記憶遺産としての「砂川闘争」を今に再発見!
初監督をつとめさせていただく、第3作目となるドキュメンタリー映画「砂川の大地から」の取材・撮影で、5月21日に砂川へ伺わせていただきました。
「土地に杭は打たれても 心に杭は打たれない!」
この砂川闘争の合言葉はどのように生まれたのか。
大地に打たれた杭を辿りながら
武蔵野の記憶遺産としての砂川闘争を
今に再発見してみてはいかがだろうか」
米軍立川基地全面返還40周年記念として企画された「砂川闘争の現地を歩く会2017年実行委員会」様の主催による「砂川闘争の旅学シリーズ」フィールドワークに伺わせていただきました。
「旧砂川町役場」だった砂川学習館に集合。1955年6月18日、立川基地拡張絶対反対町民総決起集会が開かれ、何度となく境内で集会が繰り返されたという「阿豆佐味天神社」を訪れ、宮伝町長宅 ➡︎ 青木行動隊長宅・5番組公会堂 ➡︎ 団結小屋跡 ➡︎ 宮岡副行動隊長宅 ➡︎ 麦畑で昼食 ➡︎ 返還された基地内の畑 ➡︎ 反戦旗ポール跡 ➡︎ 砂川平和ひろばを辿りました。
◎旅の案内人:福島京子(砂川平和ひろば主宰)+青木栄司(コミュニティ・カフェステッチ代表)+大洞俊之(立川テント村)
歴史の扉が開かれ、返還された基地内の畑を見た後、レイクランド大学のトンプキンス先生のスピーチが行われました。
2017,5,21 Tompkins先生スピーチ
本日は、お話する機会を与えていただきありがとうございます。福島京子さん福岡愛子さんから、砂川闘争と「アメリカインディアン運動」の共同創始者であるデニス・バンクスとの繋がりについて語ってほしい、と言われました。また、平和運動に関連する彼の活動についても、少し話してほしいとのことでした。それは、世界中で進取の精神に富んだ人々が国境を越えて触発し合い、アイデアと力を引き出し合うという価値の素晴らしさを物語るものです。
デニス・バンクスが、1956年に初めて砂川という地域と出会ったとき、彼は横田基地に駐留する空軍兵士として、フェンスの向こう側にいました。日本の警察が、砂川で平和的な活動をする人々に対し暴力で立ち向かってきたとき、彼は、立川基地のフェンスラインの内側で監視に立っていたのです。デニス・バンクスは、デモ隊の誰でもいい基地内に入る者がいたら「打ち殺せ」と言われた、と述べています。彼が、実は自分は間違った側にいるのだと気づき始めたのは、その時でした。何世紀にも渡って自分たちの土地を盗み取られてきたネイティヴ・アメリカン(アメリカ先住民)としての経験は、立川空軍基地の周辺住民である砂川の人々に重なっている、と気づいたのです。打ち鳴らされる太鼓の響きまでもが、彼にネイティヴ・アメリカの太鼓の音を思い出させました。彼は、自分が共感するのは砂川の人々に対してであって軍に対してではない、と悟りました。さらに、アメリカに帰ると彼は、砂川を守ろうとする人々の勇気と実力行使に触発されて、ネイティヴ・アメリカンの権利を守る闘いへと駆り立てられました。人種差別や政府の不当性と対決し、「アメリカンインディアン運動」を創始したのです。
砂川でデモをしていた人々と同じように、ネイティヴ・アメリカンもまたアメリカの警察の暴力に遭い、運動の初期の活動は警察の蛮行をめぐる闘いでした。とりわけ現住地を返還し政府が部族の主権をもっと認めるように求めて、「破られた条約のための行進」を呼びかけ、アメリカ全土にデモ行進を行いました。1970年代に運動が拡大すると、政府は連邦警察を使い何度も裁判を起こして、ネイティヴ・アメリカンの運動を失速させたり逆行させたりしようとしました。デニス・バンクスは、1984年に懲役三年の判決を受けましたが、出所後もまた活動を続けました。
デニス・バンクスの行動主義は、平和と文化保存、そして環境の持続可能性といった問題が中心です。彼はアメリカを横断するクロスカントリーウォークや、日本で広島から北海道まで走破するセイクリッド・ランなどを組織・統括しました。日本山妙法寺の支援と協力を得て、私たちは七世代先を考えて生きなければならないという考えを推進するために奮闘してきました。七世代先を考えるとは、環境を守り、核施設やスタンディング・ロックのパイプラインなど潜在的に有害性のある建設に反対し、平和を唱え、様々な背景を持つ広範な人々と学び合い共同し合う、ということを意味します。デニス・バンクスにとってこのような考え方・生き方は、砂川闘争の種から芽生えた精神でもあるのです。
〜砂川闘争の旅学資料集より(砂川平和ひろば編集)〜
〜⭐︎〜⭐︎〜⭐︎〜⭐︎〜⭐︎〜⭐︎〜⭐︎〜
1955年6月18日、立川基地拡張絶対反対町民総決起集会が開かれた阿豆佐味天神社。参加者1300名。その後も、この境内で何度となく集会が繰り返されたという。
▲今では「猫返し神社」として知られる阿豆佐味天神社。
▲案内人で「砂川平和ひろば」主宰の福島京子さん。
反対闘争で守った宮岡政雄の土地の麦畑
〜「砂川闘争の旅学」資料集より(砂川ひろば編集)〜
砂川闘争当時の砂川では、戦前から盛んに行われていた養蚕のための桑畑、小麦、さつま芋、陸稲などが栽培されていた。16代続く宮岡正雄の生家は、1945年8月2日に、焼夷弾により焼失してしまったため、戦後はそれまで蚕室として建てられていた家を、住居に改修して住むことになり、戦後は主要な養蚕ができなくなり、桑畑は小麦やさつま芋、陸稲栽培に変わった。
1955年5月4日、拡張が知らされ、初めての会合が5番組公会堂で開かれる日、宮岡政雄は麦の手入れをしていた。作業をしながら、「今は、主権在民の新憲法の下、戦前の陸軍の基地の拡張の時代とは違う。この法の下にたった一人になったとしても戦争に繋がる基地の拡張に絶対反対する。その結果土地を奪われたとしても、先祖は恨まないだろう。私が散在して失うわけではないのだから」と決意し、5番組公会堂に向かった。その畑は、激突の度に踏み潰され、さつま芋がむき出しになり、時には援農の労働者、学生が収穫を手伝った。また、運動麦播きが遅れて来年の収穫が危ぶまれた時、反対同盟の人々が麦まきを手伝い、例年通りの収穫ができた。支援者や反対同盟の絆で守られた畑に、砂川闘争当時の作物を植え、今麦畑を再現している。そしてここから、「砂川地粉」・「砂川地粉うどん」が作られている。
歴史の扉を開けて中へ。
返還された基地内の畑へ。
◎ドキュメンタリー映画「砂川の大地から」Facebookページ
➡︎ https://www.facebook.com/SunagawaDocumentary/
「土地に杭は打たれても 心に杭は打たれない!」
この砂川闘争の合言葉はどのように生まれたのか。
大地に打たれた杭を辿りながら
武蔵野の記憶遺産としての砂川闘争を
今に再発見してみてはいかがだろうか」
米軍立川基地全面返還40周年記念として企画された「砂川闘争の現地を歩く会2017年実行委員会」様の主催による「砂川闘争の旅学シリーズ」フィールドワークに伺わせていただきました。
「旧砂川町役場」だった砂川学習館に集合。1955年6月18日、立川基地拡張絶対反対町民総決起集会が開かれ、何度となく境内で集会が繰り返されたという「阿豆佐味天神社」を訪れ、宮伝町長宅 ➡︎ 青木行動隊長宅・5番組公会堂 ➡︎ 団結小屋跡 ➡︎ 宮岡副行動隊長宅 ➡︎ 麦畑で昼食 ➡︎ 返還された基地内の畑 ➡︎ 反戦旗ポール跡 ➡︎ 砂川平和ひろばを辿りました。
◎旅の案内人:福島京子(砂川平和ひろば主宰)+青木栄司(コミュニティ・カフェステッチ代表)+大洞俊之(立川テント村)
歴史の扉が開かれ、返還された基地内の畑を見た後、レイクランド大学のトンプキンス先生のスピーチが行われました。
2017,5,21 Tompkins先生スピーチ
本日は、お話する機会を与えていただきありがとうございます。福島京子さん福岡愛子さんから、砂川闘争と「アメリカインディアン運動」の共同創始者であるデニス・バンクスとの繋がりについて語ってほしい、と言われました。また、平和運動に関連する彼の活動についても、少し話してほしいとのことでした。それは、世界中で進取の精神に富んだ人々が国境を越えて触発し合い、アイデアと力を引き出し合うという価値の素晴らしさを物語るものです。
デニス・バンクスが、1956年に初めて砂川という地域と出会ったとき、彼は横田基地に駐留する空軍兵士として、フェンスの向こう側にいました。日本の警察が、砂川で平和的な活動をする人々に対し暴力で立ち向かってきたとき、彼は、立川基地のフェンスラインの内側で監視に立っていたのです。デニス・バンクスは、デモ隊の誰でもいい基地内に入る者がいたら「打ち殺せ」と言われた、と述べています。彼が、実は自分は間違った側にいるのだと気づき始めたのは、その時でした。何世紀にも渡って自分たちの土地を盗み取られてきたネイティヴ・アメリカン(アメリカ先住民)としての経験は、立川空軍基地の周辺住民である砂川の人々に重なっている、と気づいたのです。打ち鳴らされる太鼓の響きまでもが、彼にネイティヴ・アメリカの太鼓の音を思い出させました。彼は、自分が共感するのは砂川の人々に対してであって軍に対してではない、と悟りました。さらに、アメリカに帰ると彼は、砂川を守ろうとする人々の勇気と実力行使に触発されて、ネイティヴ・アメリカンの権利を守る闘いへと駆り立てられました。人種差別や政府の不当性と対決し、「アメリカンインディアン運動」を創始したのです。
砂川でデモをしていた人々と同じように、ネイティヴ・アメリカンもまたアメリカの警察の暴力に遭い、運動の初期の活動は警察の蛮行をめぐる闘いでした。とりわけ現住地を返還し政府が部族の主権をもっと認めるように求めて、「破られた条約のための行進」を呼びかけ、アメリカ全土にデモ行進を行いました。1970年代に運動が拡大すると、政府は連邦警察を使い何度も裁判を起こして、ネイティヴ・アメリカンの運動を失速させたり逆行させたりしようとしました。デニス・バンクスは、1984年に懲役三年の判決を受けましたが、出所後もまた活動を続けました。
デニス・バンクスの行動主義は、平和と文化保存、そして環境の持続可能性といった問題が中心です。彼はアメリカを横断するクロスカントリーウォークや、日本で広島から北海道まで走破するセイクリッド・ランなどを組織・統括しました。日本山妙法寺の支援と協力を得て、私たちは七世代先を考えて生きなければならないという考えを推進するために奮闘してきました。七世代先を考えるとは、環境を守り、核施設やスタンディング・ロックのパイプラインなど潜在的に有害性のある建設に反対し、平和を唱え、様々な背景を持つ広範な人々と学び合い共同し合う、ということを意味します。デニス・バンクスにとってこのような考え方・生き方は、砂川闘争の種から芽生えた精神でもあるのです。
〜砂川闘争の旅学資料集より(砂川平和ひろば編集)〜
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1955年6月18日、立川基地拡張絶対反対町民総決起集会が開かれた阿豆佐味天神社。参加者1300名。その後も、この境内で何度となく集会が繰り返されたという。
▲今では「猫返し神社」として知られる阿豆佐味天神社。
▲案内人で「砂川平和ひろば」主宰の福島京子さん。
反対闘争で守った宮岡政雄の土地の麦畑
〜「砂川闘争の旅学」資料集より(砂川ひろば編集)〜
砂川闘争当時の砂川では、戦前から盛んに行われていた養蚕のための桑畑、小麦、さつま芋、陸稲などが栽培されていた。16代続く宮岡正雄の生家は、1945年8月2日に、焼夷弾により焼失してしまったため、戦後はそれまで蚕室として建てられていた家を、住居に改修して住むことになり、戦後は主要な養蚕ができなくなり、桑畑は小麦やさつま芋、陸稲栽培に変わった。
1955年5月4日、拡張が知らされ、初めての会合が5番組公会堂で開かれる日、宮岡政雄は麦の手入れをしていた。作業をしながら、「今は、主権在民の新憲法の下、戦前の陸軍の基地の拡張の時代とは違う。この法の下にたった一人になったとしても戦争に繋がる基地の拡張に絶対反対する。その結果土地を奪われたとしても、先祖は恨まないだろう。私が散在して失うわけではないのだから」と決意し、5番組公会堂に向かった。その畑は、激突の度に踏み潰され、さつま芋がむき出しになり、時には援農の労働者、学生が収穫を手伝った。また、運動麦播きが遅れて来年の収穫が危ぶまれた時、反対同盟の人々が麦まきを手伝い、例年通りの収穫ができた。支援者や反対同盟の絆で守られた畑に、砂川闘争当時の作物を植え、今麦畑を再現している。そしてここから、「砂川地粉」・「砂川地粉うどん」が作られている。
歴史の扉を開けて中へ。
返還された基地内の畑へ。
◎ドキュメンタリー映画「砂川の大地から」Facebookページ
➡︎ https://www.facebook.com/SunagawaDocumentary/
2017年05月20日
「土地に杭は打たれても 心に杭は打たれない!」
2017年01月22日
ドキュメンタリー映画『砂川の大地から』製作に向けて
「アオギリにたくして」「かけはし」に続く、ドキュメンタリー映画「いのちの音色」シリーズとして「砂川の大地から 」の製作に向けて2017年より本格始動します。
砂川闘争から60年を迎えた2015年秋、広島の被爆アオギリ2世・3世の苗が砂川に植樹されました。いのちの尊さと平和の大切さへの思いを込めて、被爆アオギリ2世・3世の植樹の企画をしてくださったのは福島京子さんです。福島さんのお父さんは、砂川闘争で反対同盟副行動隊長をされていました。農地を守り、戦争につながることはしたくないという強い信念を持っていたご両親の姿を見て育ちました。
2010年に旧拡張予定地の一角に、福島さんは「砂川平和ひろば」を開設しました。砂川の歴史を伝え、人々が集い語り合う場として活動を継続しています。
砂川闘争とはなんだったのか? 平和運動には無関係だったという福島さんが、なぜ今、砂川の大地から平和を発信しているのか。 アオギリが繋いでくれた出会いの中から、新たなドキュメンタリー作品が生まれようとしています。
これまで「アオギリにたくして」「かけはし」の企画・製作・プロデュース・音楽を一緒に行ってきたしげ兄(伊藤茂利)と共に、第三作目となる「砂川の大地から」では、初監督にも挑みながら来年2018年の完成を目指します。
皆様のご支援・ご協力を何卒よろしくお願い申し上げます。
2016年12月26日
クリスマスは、砂川でドキュメンタリー撮影〜♪
▲イタリアに一年間暮らしていた福島京子さん手作りのお菓子。クリスマスの日、撮影に伺った私たちにプレゼントしてくださいました〜!
アオギリのご縁で出会いをいただいた福島京子さんのドキュメンタリー映画撮影のため、12月25日砂川へ。
京子さんは昨年、被爆アオギリ2世・3世の植樹を砂川の地にしてくださり、この秋には映画「アオギリにたくして」の上映会を企画してくださいました。勉強不足な私は、京子さんを通じてはじめて砂川闘争について知った。
「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」
1955年に始まった砂川闘争。地元の人たちが旧米軍立川基地の拡張計画に反対し、米軍基地を撤退させた唯一の住民運動が砂川の地で繰り広げられた。福島京子さんは、反対農家の中心だった故・宮岡政雄さんの次女として生まれた。京子さんが子供の目で見た砂川闘争、そしてずっと両親の生き様を見続けてきた京子さんが語る砂川闘争は、Wikipediaや参考資料からは決して感じることの出来ない温度を心に伝えてくれる。
一人ひとりが尊重される世界を何より大切にしていた父の残した農園の一角に、京子さんは「砂川平和ひろば」を開設。平和・郷土・農業など様々なテーマで交流する場をつくり発信している。
クリスマスの12月25日、「砂川平和ひろば」の大掃除をする福島京子さんの姿を撮影に砂川に伺った。
農園に向かう京子さんの後を追って、いくつかの質問を投げかけた。ご両親のことを語りながら言葉を詰まらせ涙を拭う京子さんの姿に、思わず涙があふれ、カメラをしっかり握り締めた。
この秋から撮影を開始したドキュメンタリー。砂川の大地に宿る魂を追っていきたいと強く思うクリスマスの夜でした。
▲12/25大掃除の後は、来年に向けて「砂川平和ひろば」のミーティングの様子を撮影させていただきました。
2016年12月12日
砂川の大地から平和を〜♪
昨年被ばくアオギリ2世・3世が植樹され、今秋には映画「アオギリにたくして」上映とミニライブ、ノンフィクション作家の高瀬毅様との対談をさせていただいた砂川へ。
12/10砂川平和ひろばでの収穫祭に、ドキュメンタリー取材&撮影に伺わせていただきました〜!
収穫祭では、砂川の地で育った美味しい野菜がいっぱい入ったけんちん汁と砂川のもち米で作られたお赤飯をいただき、砂川の大地の恵みを食したあと、映画「草の根の人々」(浜岡英夫作品)が上映されました。
「草の根の人々」の上映のあとは、栗原正男さん(80歳)の証言「激突の砂川、あの時」。
元砂川郵便局員だった栗原正男さんのお母様の栗原むらさんは、砂川闘争の女性反対同盟として様々な場面で活躍されていた方だそうです。長男の正男さんは当時19歳で、母親と共に闘争に参加されていたそうです。当時、拡張予定地とされていた一番南、基地に一番近いところに住み、お住まいは基地闘争の時、救護所として使われていたといいます。
▲戦時中のこと、そして砂川闘争について語ってくださった栗原正男さん(左)と砂川平和ひろば主宰の福島京子さん(右)。
80歳の栗原正男さんが子供の頃見た戦争のお話を聞かせていただき、いかに戦争が人間を無視したものと化していくものかがストーレートに伝わってきました。そして戦後、1955年にはじまった、砂川闘争について語ってくださいました。
あの戦争を体験してきた自分たちが、二度と戦争を起こしたり加担してはいけないという強い信念が砂川闘争の根底にあったことがストレートに伝わる貴重な映画とお話でした。
在日米軍立川飛行場(立川基地)の拡張に反対して地元住民の方々が町をあげて反対し戦った砂川闘争。基地は拡張されることなく、米軍基地は1977年に立川から撤退、跡地は返還されました。最後まで戦い抜いたのは23件。23件の皆さんの強い意志が想いを形にしていきました。
砂川闘争の第二世代のひとりである福島京子さん(反対同盟副行動隊長・宮岡政雄の次女)は、農地を守り、戦争につながることはしたくないという強い信念を持っていたご両親の姿を見て育ちました。2010年に旧拡張予定地の一角に、「砂川平和ひろば」を開設。砂川の歴史を伝え、人々が集い語り合う場として活動を継続し、秋には毎年収穫祭を開催しています。
福島さんは、昨年被ばくアオギリ2世・3世の苗を砂川に植樹してくださいました。
私は、恥ずかしいことながら、福島さんにお会いするまで砂川闘争について全く知りませんでした。
砂川闘争とはなんだったのか?そして、私と同じように平和運動には無関係だった福島さんが、なぜ今、砂川の大地から平和を発信しているのか? 今、福島京子さんの取材と撮影を行っています。
アオギリが繋いでくれた出会いの中から、今また新たなドキュメンタリー作品が生まれようとしています。