
この夏、
映画『アオギリにたくして』は、劇場公開から13年目を迎えます。
広島平和記念公園の被爆アオギリの木の下で修学旅行生に被爆体験を語り続け
アオギリの語り部と呼ばれた沼田鈴子さんの前半生をモデルに制作した作品です。
被爆者の沼田鈴子さんに初めてお会いしたのは今から40年の1986年。
インターネットも携帯電話もまだ普及していない時代でした。
アメリカの学校や教会で日本文化紹介と共に原爆映画の上映を行い、被爆者のメッセージを伝える民間外交プロジェクト「ネバー・アゲイン・キャンペーン」(1985~2011)の民間大使として単身渡米することになり、事前学習で広島を訪れたときに沼田鈴子さんからお話を聞かせていただきました。
沼田さんは、アメリカに持参する原爆映画「にんげんをかえせ」の中に出演されている被爆者の中の一人でした。

知れば知るほど「戦争や原爆の体験のない者に一体何が伝えられるのか?」と不安ばかりが大きくなる中で、渡米前のひと夏を広島で過ごしました。原爆養護ホームに通いながら、たくさんの被爆者の方々との出会いをいただきました。「伝えなければ」という気負いは、いつの間にか「伝えたい」という想いへと変わっていきました。
それにしても、原爆を投下された国で生まれ育った私が、原爆を投下した国に行ってヒロシマ・ナガサキを伝えることは大変勇気のいることでした。それでもやってみようと思えたのは、生き地獄を体験しながらも憎しみの連鎖を断ち切り、世界中の子どもたちの幸せを祈りながら「自分と同じ苦しみを、世界中の誰にもさせたくない」と願う被爆者の方々の想いこそ、日本が世界に発信すべき大切なメッセージだと感じたからです。

アメリカでは、「ヒロシマ・ナガサキ」といえば「パールバーバー」が返ってきました。アジアの人々を苦しめた日本人に平和を語る資格はないとまで言われたこともありました。それでも、一緒に折り鶴を折ったり日本文化の紹介をしたりしながら、原爆の話をする前に心のコミュニケーションをとることで反応が変わっていきました。
同じ地球に住む 同じ人間の上に何が起きたのかを知った時、最初の言葉が変わります。
「パールハーバー」ではなく、「今、被爆者は、どんな気持ちで生きていますか?」「被爆者は、僕たちのことが嫌いですか?」へと。
「この映画を世界中のリーダーに見せてください!」
「ヒロシマ・ナガサキを二度と繰り返さないために、私たちが出来る事は何だろう?」
今でも、原爆映画を観た後に、被爆者のメッセージを伝えた時の生徒たちの瞳を忘れる事が出来ません。私は、一生かけてお世話になったヒロシマ・ナガサキの被爆者の方々のメッセージを伝え続けることに意味があると感じました。
20軒以上の家庭にホームステイさせていただきながら、アラスカ・オレゴン・ネバダ・オハイオ・ニューヨークなどで、1年間に280回のプレゼンテーションを通して約1万3000人の人々と交流する中で、いつも心の支えになっていたのは、被爆者の方々から託された平和への想いでした。
アメリカで被爆者のメッセージを伝えた若き日の体験は、私の人生の原点です。

帰国後、私はかつての自分と同じようにヒロシマ・ナガサキに無関心な人たちに被爆者のメッセージを伝えるために、一個人の立ち位置からの平和づくりへの挑戦を始めました。
戦後50年には、日本で暮らすアメリカ・ドイツ・中国・韓国・フィリピンなど8カ国の出演者と共に被爆体験を伝える朗読劇を企画・プロデュースしました。それぞれの国でヒロシマ・ナガサキがどの様に伝えられているのか、原爆投下を各国がどの様に受け止めたのかについて率直に語り合い、国際電話でそれぞれの祖父母や両親の戦争体験の聞き取りをしてもらいました。被害と加害の両側面の歴史から学ことで、教訓を未来に活かし、平和な世界を築く力となると感じました。

いろんな想いを抱いて出演してくれた様々な国の出演者に
被爆者の沼田鈴子さんに会って直接お話を聞く機会をつくりたいと思いました。
みんなを連れて広島を訪れ、広島平和記念公園の被爆アオギリの木の下で、沼田さんと待ち合わをしました。沼田さんのお話は、国籍を超えてしっかりとみんなの心に届いていました。

伝える術のない想いを詩に、言葉にならない想いをメロディーに託しながら、歌をつくり始めたのは30歳後半頃からだったでしょうか。
年月の流れと共に、若い頃にお世話になった被爆者の方が年々亡くなっていく悲しみの中で、何かせずにはいられない思いから、歌と語りでヒロシマ・ナガサキを伝えるライブ活動を2008年8月6日にスタートしました。
※当初は「私のヒロシマ・ナガサキ」というタイトルで全国公演をスタートし、現在は「いのちの音色」として国内外でライブ活動をしています。

全国ライブ行脚の中で、広島を訪れた時に沼田鈴子さんと再会し、沼田鈴子さんの被爆体験の朗読をさせていただくことになりました。
東京に戻ると、ふた葉を出した小さなアオギリの苗が届きました。
沼田さんが送ってくださった可愛い被爆アオギリ3世の苗を見て、思わず口ずさみながらつくった歌が、「アオギリにたくして」でした。

87才の沼田さんのお誕生日に、「アオギリにたくして」を歌うことになりました。ギタリストの伊藤茂利と共に平和記念公園の中にあるフェニックスホールで開催されるイベントにご招待いただきました。
お誕生日の前日、沼田さんのお部屋に伺いました。大勢の前で歌う前に沼田さんだけのためにと伝え、ベッドの傍で「アオギリにたくして」を歌い演奏すると、沼田さんが涙を流しながら聞いてくださいました。
伊藤の手を握り締めながら「あなたに頼んだよ」とおっしゃった沼田さんの言葉に、伊藤も涙していました。

地球科学者の山中高光先生のご尽力で、2010年秋に米国ワシントンの(財)カーネギー地球物理学研究所に被爆アオギリ2世の植樹と海外初のピースライブが開催されることになり、広島市長のメッセージを届けました。
沼田鈴子さんが最初の一堀りをされ、仏師の川島康史様が「微笑みの輪が広がっていきますように」との想いを込めて制作された木彫りの像をプレゼントして、沼田さんの平和への想いを伝えました。
(財)カーネギー地球物理学研究所に植樹された被爆アオギリ2世は、私の身長を遥かに超えて、大空の下で天高くスクスクと育っています。

翌年(2011年)3月、アメリカでの初ライブと被爆アオギリ2世の植樹のご報告をするために、沼田さんに会いに広島へと向かいました。それはちょうど、3.11東日本大震災の直後のことでした。
「被災地や福島の子どもたちのことが心配で、病院で寝てられない」
そう言って笑いながら、沼田さんは早めに退院して自分で情報収集しながら、修学旅行で広島に来てくれた被災地や子どもたちのことや福島原発のことを案じ続けていました。
「元気になったらアオギリの木の下で、子供たちと一緒に『アオギリにたくして』を歌いましょう」。それは、私が沼田鈴子さんと交わした最後の言葉となりました。

最後に沼田鈴子さんとお会いしたのは、沼田さんが亡くなる1か月前のことでした。
自らの体験を通して、戦争の愚かさ、平和の尊さ、核の恐ろしさ、そして平和づくりの大切さを生涯伝え続けた沼田鈴子さんは、2011年3月11日に起きた東日本大震災の4ヶ月後の7月12日に永眠されました。
私はその日、ギタリストの伊藤さんと共に広島女学院大学でのライブで広島入りしていました。ライブを終えてタクシーで移動する途中、沼田さんが原爆にあった元広島逓信局の前を通りかかりました。なぜか、ふとそこに立ち寄りたくなってタクシーから降り、沼田さんのことを思いながら、しばらくそこで時間を過ごしました。
午後から「アオギリにたくして」の歌の入っている新しいCDの記者会見があったので、広島市役所の記者室に向かうと、今朝沼田さんが亡くなったことを記者の方から突然知らされました。
ワールド・フレンドシップ・センターの立花ご夫妻のご配慮で、病院から葬儀場に運ばれた沼田さんと私たち4人で、最後のお別れの時を過ごしました。

「生きて、伝えなければ……」
体が弱って力の入らない握りこぶしを膝の上に立てて、静かにそう語った沼田さんの言葉が今も忘れられません。
何か私たちに出来る事はないか…と考える日々が続きました。
あの日、キノコ雲の下にいた一人の女性が、その後どんな思いで生きてきたのか。長い間ずっと話すことのできなかったあの日の事を、どんな思いで話し始め、語り部となったのかを描く事で、今を生きる私たちが受け取るべきメッセージがあると信じて、伊藤と共に沼田さんをモデルとした映画を制作する決意をしました。



映画製作は、それまで体験した事のない大変な日々でした。私は今も、その時のトラウマを抱えています。一つ一つ乗り越えながら映画を完成できたことは奇跡にも近いことでした。もうダメだと思う瞬間に、いつも救いの手がさしのべられ、沼田さんが見守ってくれていると感じる瞬間が何度あったことでしょう。
生まれて初めての映画作品でもあり、至らない点もあると思います。しかしそれでも、その時の自分に出来る全てを尽くしてつくりました。
たくさんの皆様に支えていただながら完成した映画『アオギリにたくして』は、今も国内外で上映活動が続いています。
映画『アオギリにたくして』の中には、
「いのちの音色」ライブで歌い奏でてきた楽曲が流れています。
2013年夏に劇場公開した翌年、
映画『アオギリにたくして』は「主題歌や挿入歌など音楽が被爆者の方の想いを効果的に伝える役割を果たしている」として、第一回JASRAC音楽文化賞を受賞いたしました。

2016年には、アメリカで
映画『アオギリにたくして』上映会が開催されました。この時のコーディネートをしてくださったのは、私がヒロシマ・ナガサキについて考えるきっかけとなった「ネバー・アゲイン・キャンペーン」のアメリカ代表で平和学者のレイスロップ教授ご夫妻でした。
学校や図書館・教会やお寺など6か所での自主上映が行われ、大変大きな反響をいただきました。「もう一度アメリカに戻って、上映活動を続けてほしい!」とたくさんのエールをいただきました。

世界に向けて映画『アオギリにたくして』を発信していこうとしていた直前、それまで共に映画・音楽活動を続けてきたギタリストの伊藤茂利が緊急入院し、がんの告知がありました。
全ての予定をキャンセルして、がんと闘う伊藤をみんなで支えながらの日々が始まりました。
数々の厳しい抗がん剤治療を受けながら、今年で10年目の闘病生活に入りました。この間、何度も危機的な状況を乗り越えながらの日々でした。昨年は主治医の先生からのお言葉に、いよいよ覚悟しながらの毎日でしたが、「死に向かうのではなく、最後まで生きていこう!」と、ライフワークとして続けてきた「いのちの音色」1000回ライブ達成を目標に再スタートしました。
不思議なことに、ライブをする度に、生きる気力と体力が蘇っていきました。

沼田鈴子さんと出会い、アメリカでヒロシマ・ナガサキを伝える体験から40年。
世界の人々と被爆体験を伝える「トンボが消えた日」のプロデュースから31年。
弊社ミューズの里を設立し、
「いのちの音色」ライブ活動をスタートしてから18年。
映画『アオギリにたくして』の劇場公開から13年。
私にとってヒロシマ・ナガサキを伝えることは
遠い昔の自分との対話でもありました。
何も知らなかった頃の自分に
どうしたら伝わるだろう?と考えながら、模索しながら…
小さな一個人の立ち位置から見えてくることの中にも
たくさんの学びと気づきがありました。
これまでも、そして、これからも
お世話になった被爆者の方々から託された想いを
伝え続けながら生きていきます。
いのちある限り、これからもずっと。
Seeds of Peace!
平和の種を世界へ〜♪