18年間務めた久米宏さんがご逝去されました。
心よりお悔やみ申し上げます。
久米宏さんの訃報に接し
一つの時代が終わったような気持ちになりました。
1985年に始まったニュースステーション
それまでにない新しい報道スタイルが注目を浴び
賛否両論ありながらも、新たな報道番組を確立していきました。
ニュースステーションが始まった頃
私は21歳。人生を模索中でした。
今はもうなくなっていると思いますが
当時の六本木にあったテレ朝の敷地内には
なんとも立派な古民家のような建物が残っていて
そこに毎日通いながら、当時の報道局社会部長のもとで契約スタッフとして働いていました。
その古民家の窓から見えるのどかな庭で
新しく始まるニュースステーションの
キャスター久米宏さんの撮影が行われていました。
成功するか否か
テレビ局にとっても久米さんにとっても
大きなチャレンジだったことでしょう。
ニュースステーションの開始と共に
六本木からアークヒルズへと一時期本社ビルが移ることになると
私が所属していた部署もニュースステーションの制作部と同じ地下のフロアーに移りました。
テレビ画面から伝わる雰囲気は
キャスターの小宮悦子さんなどの存在で
女性活躍のイメージがありましたが
制作スタッフは男性ばかりでした。
テレビから伝わるイメージと
現場は違うんだなと感じながらも
夢を託して真剣に闘っている
大人たちの真剣な姿に
すごいな!と感じました。
すでに「ぴったしカンカン」「ザ・ベストテン」などでの久米宏さんの司会者としての評価は高くありましたが、ニュース番組のキャスターを務める上で報道がショー化されていくことへの批判と共に、ジャーナリズムとしての視点への懸念も当初あったように思います。
しかし心配をよそに、久米さんの親しみやすいキャラクターと絶妙なトーク、視聴者目線でわかりやすくライブ感覚で伝える姿勢が視聴率を伸ばし、新しいニュース番組のあり方を作っていかれたように思います。
話術の巧みさと自分の才能に本人が甘えることなく、ものすごく勉強して、周りの批判を力に変えながら、魂を込めて覚悟して報道されていたのではないでしょうか。
当時、私がいた部署は他の番組のように日々何かがオンエアされるものではなく、当時の昭和天皇、皇后が亡くなった時、そして、大地震が起きた時などに備えての番組づくりでした。そうした時にはコマーシャルなしに番組を放映し続ける時間が定められていて、その時のための番組作りでした。
社会部長から、毎朝全ての大手新聞に目を通して、皇室に関する記事と反戦・反核に関する記事を切り抜きスクラップブックに貼って整理しておくように言われていました。
せめて、自分の仕事で切り抜いた記事だけでもちゃんと読んでおこうと思いながらスクラップブックに貼った記事の一つが、アメリカの平和学教授レイスロップご夫妻と国語教師の北浦葉子さんが「若者ボランティアいませんか?」と呼びかけている「ネバー・アゲイン・キャンペーン」の記事でした。
渡航費は自己負担で単身渡米し、アメリカの家庭にホームステイしながら、学校や教会でヒロシマ・ナガサキを伝える草の根ボランティアに関する草の根のボランティア活動の記事でした。
約1年間働いたお金で
ニュースステーションが始まった翌年の1986年秋
私は渡米しました。
あれから40年の月日が流れました。
ニュースステーションを去る時の
久米宏さんの最後の挨拶は
「民間放送というのは、かなり脆弱で弱くて、危険なものなんですけど。僕はこの民間放送が大好きというか、もう愛していると言ってもいいんです」「なぜかというと、日本の民間放送は原則として戦後に全て生まれました」「日本の民間放送、民放は戦争を知りません。国民を戦争に向かってミスリードしたという過去が、民間放送にはありません。これからもそういうことがないことを祈っております」
ご自身が去った後に懸念される
テレビへの最後のエールだったのでしょう。
時代は変わり、ネットの普及と共に
誰もが発信者となった今
率直に感じることは…
喋りの技術が巧みでなくてもいいから
権力にも、そして視聴者も、媚びない
心底ジャーナリズム魂を感じさせてくれる
大人の成熟した報道番組が見たいなと
久米宏さんが見たら
いいぞ!っと喜ぶような
そんな報道番組の出現を祈ります。
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