馬さんのことを思い出しながら、涙が流れてきました。
戦後50年(1995年)、私がまだ異文化コミュニケーション雑誌の編集長をしていた時のことでした。ヒロシマ ・ナガサキの被爆者の方々の証言とメッセージを世界の人々と共に伝えて行くために、雑誌内で出演者を募集したところ、アメリカ・ドイツ・韓国・フィリピン・バングラディシュ、スペイン・中国の若者たちが応募してきました。馬さんはその出演者の一人でした。
当初は「この子たちの夏」という朗読劇をやる予定でしたが、会社として取り組む上で、制作団体の規定に合わなかったことから急遽オリジナル作品をつくることになりました。
ちょうどその年の10年前、私は「ネバー・アゲイン・キャンペーン」の民間外交プロジェクトで渡米し、アメリカの学校や教会で日本文化紹介とともに被爆体験を伝える1年間の草の根ボランティアに参加しました。様々なルーツを持つアメリカの人々に被爆者のメッセージを伝える体験の中で、悩み、感じ、考えた体験は、人生の原点となっています。
ヒロシマ ・ナガサキを世界に伝えようとすればするほど、パールハーバーやアジアへの日本の加害について、しっかりと見つめることの大切さをアメリカ行脚で痛感いたしました。それは、日本の過去を非難するためでも過去に固執するためでもなく、未来志向で考えながら目の前にいる様々な国々の隣人たちとコミュニケーションを通して信頼関係を築く上で、とても大切なことでした。
世界の人々と共にヒロシマ・ナガサキを伝えていく上で、多国籍の出演者の皆さんに国際電話で自分の両親や祖父母の戦争体験の聞き取りをしてもらいました。それぞれの国でヒロシマ・ナガサキがどのように語られているかについて話し合い、原爆が投下された時に世界の人々がどう感じたかを取材しながら、平和な世界を願って世界の若者たちと共につくった多国籍朗読劇でした。
そして、その舞台に出演してれた一人が中国の青年、馬さんでした。
初めて会った時、目をキラキラさせて「日中友好のために何かしたいんです!」と語っていた馬さんの希望に満ちた顔を、今もはっきりと覚えています。
馬さんのお母さんはとても裕福な家庭で育ちましたが、日本軍に家も土地も全て奪い取られ、身一つで命からがら逃げのびました。父方の親戚が二人、日本軍によって射殺されていました。1972年、日中は国交を回復し、それを記念して開催された展覧会を見に行った時、お母さんは、会場に入ることができませんでした。会場の入り口の日の丸の旗を見た途端、一瞬にして過去の記憶がよみがえったからです。馬さんは「まだ私が子どもの頃でしたが、家に逃げ帰ってきた母が、『日本が来たよ、また日本が攻めてきたよ』と震える声で言ったこと覚えています」と語っていました。
馬さんは、中国ではエリート商社マンとして20代で部長となり何不自由ない生活をしていました。1985年に日本に出張で来た時は、「なんて不思議な国だ」と感じたそうです。「こんな小さな国が、どうして世界有数の経済大国になったのだろう」もっと日本を知りたくなった馬さんは1989年に会社を休職して来日し、皿洗いやビル掃除をしながら日本語を学び、その後、日本の大手商社に就職しました。音楽が好きだった馬さんは、生活に少し余裕ができた1993年頃から、日本の最新ヒット曲と日常生活を紹介するラジオ番組を自主制作し、中国語・日本語・英語で自らDJを務めながら中国で発信し始めました。
「普通の日本の姿を中国人に伝えたい」という馬さんのラジオ番組づくりへの熱意は中国全土に広がり、当時は北京、南京、広州など12都市の2億人エリアに向けて放送されるようになっていきました。給料の半分を使って生活費を切り詰めながらの日々の中で、何度となく番組の打ち切りも考えたことがあったそうですが、それでも馬さんはチャレンジし続けていました。
「日本人には戦争の時のことを決して忘れて欲しくない。そして中国人には、昔の日本だけじゃなくて、今の日本人の姿をもっと見てほしい」
日中友好を願い、両国の懸け橋としてチャレンジし続ける馬さんの熱意に深く感動しました。
「幼い頃から日本を敵視していましたが、馬さんの番組によって変わりました」「私が接することのできる唯一の日本の生の情報です」など、中国から月300通を超えるファンレターが届きました。私たちは、少しでも馬さんを応援するために「馬さんの中国向け放送を支援する会」をつくって募金を呼びかけ、馬さんのラジオ番組を現地で聞いてみたいという思いから、みんなで中国を訪れて、現地のリスナーの方々と交流しました。
中国の熱狂的なリスナーの皆さんと現地で会ったときは時は、驚きました。石川さゆりさんが大好きだという中国人女性は、私の手を握り締め、「美くしい歌声とメロディーに、野蛮だと思っていた日本人のイメージが変わりました。こんなにも感動する歌をつくる人が日本にいるんですね」と涙ながらに興奮して伝えてくれました。
その後、馬さんは独立し、中国の音楽を日本に紹介するプロジェクトなど幅広く活躍するようになり、日本人アーティストたちの中国でのコンサートを実現させていきました。
今年は、戦後80年。1972年の日中国交正常化から53年…
インターネットも普及し、今は違う形になっているかもしれませんが、馬さんが普段着の日本を中国に伝えようと、ドリカム、SMAP、小室哲哉さんなど当時の日本のヒット曲を1週間後には中国の家庭でも流れる番組をつくって放送されていた90年代の頃を思いながら…
日中共にこれまで、いろんな人たちのいろんな思いの中で、戦後の文化交流がなされてきました。時が流れ、まるでずっとそうであったかのように、当たり前のように感じていることも、そうなるまでにどれ程多くの人々の努力と苦労があったことでしょう。
そして、その根底には、二度と戦争をしない、平和を共に築いていきたいという純粋な思いが強く流れていたのではないでしょうか。
今一度、心から馬さんに感謝したい気持ちでいっぱいになりました。あの頃を思い出しながら涙があふれてきます。
日本と中国、そして両国と世界の平和を心から祈ります。
平和を!✨
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