2021年09月01日
青函連絡船洞爺丸事故で救命胴衣を日本人に手渡して亡くなった二人の宣教師
ドキュメンタリー映画『かけはし』オンライン上映会にご参加くださった建築家の丸谷博男さんからお聞きした町田市野津田町の「農村伝道神学校」へ。一昨日、弊社の伊藤さんと共に訪れました。
あいにく、どなたもおられなかったのですが、
オフィスからとても近いことがわかり、
また次回、取材に伺わせていただきたく思っています。
建築家の丸谷さんは、町田市野津田町の農村伝道神学校(鶴川学院)にある建物の保存活動をされています。校内の使っていない日本の館を建て直し、世界の人々とも繋がりながら、日本の文化を伝え、いのちの大切さを発信する拠点を作ろうとされています。
その農村伝道神学校は、日本海難史上最大の惨事となった青函連絡船洞爺丸事故で、遭難死する前に救命胴衣を日本人の若者に与えて亡くなったカナダ人宣教師アルフレッド・ラッセル・ストーン牧師が創立した学校だということを初めて知りました。
三浦綾子さんの小説「氷点」では、主人公の家族が洞爺丸に乗り合わせるという形で洞爺丸事故のことが描かれ、ストーン牧師は命を与えた宣教師のモデルとなっています。
洞爺丸事故は、1954年9月26日、台風第15号(洞爺丸台風)により青函連絡船洞爺丸が沈没した海難事故で、 助かった方はわずか160名ほどで、1000人を超える人々が亡くなりました。
事故後、救命胴衣をつけていない二人の宣教師が発見されました。二人から救命胴衣をもらって生還した日本の方の親族が新聞社に伝えたことで報道されました。
泣き叫ぶ乗客を励ましながら救命胴衣の着用を手助けした二人の宣教師は、最後に自分の救命胴衣を日本の若者に与え、亡くなったそうです。
その一人が、『土を愛し、人(日本人)を愛し、神を愛する』を生涯のモットーとし「社会的救済とは、個人の救済に適うよう社会状態を変ずる事を意味する」という言葉を残した宣教師で、1947年12月に東京都町田市で農業伝道のための神学校を設立し、初代の校長に就任したカナダのアルフレッド・ラッセル・ストーン牧師(享年52歳)でした。
そして、もう一人は、YMCAから日本に派遣された青年で、全国の大学に 組織されたYMCAの学生を指導していたアメリカのディーン・リーパー牧師(享年33歳)でした。
とてもご縁を感じるのは、ストーン牧師が創設した学校と共に運営されているシオン幼稚園に、幼い頃に私は通っていました。そして、リーパー牧師のご長男のスティーブン・リーパーさんは、2007年に米国人としてはじめて、広島平和記念資料館(原爆資料館)を運営する(財)広島平和文化センター理事長に就任され(2013年まで)、初プロデュース映画『アオギリにたくして』の八丁座での広島上映会にご来場くださり、ご挨拶くだいました。
スティーブン・リーパーさんは、1984年から広島に入り、86年に翻訳通訳会社をつくって、たくさんの被爆者の話を翻訳通訳されてきました。そうした経験を踏まえ、こんなにも被爆者の内面を見た映画は初めてですとお話しくださり、映画『アオギリにたくして』の感想を下記のようにお話しくださいました。
「誰でも8月6日は大変だったと思うでしょう。でも、その後の苦しみは簡単には理解できないと思います。この映画から、被爆者の辛さ、被爆者の気持ちを感じ取ることが出来ます。そして、なんで被爆の木が大切かという気持ちがわかる。苦しみの経験と深い愛情、そして、アオギリが我々に与えてくれる希望、生きたいという強さを、広島から全世界に発信する必要があります」
アメリカ上映を前に、「この映画をつくってくれて感謝でいっぱいです」と言って握手してくださったスティーブン・リーパーさんに、たくさんの勇気と希望をいただきました。
1947 年にアメリカで生まれ、1 歳の時にご両親と来日し、幼少期を日本で過ごしたリーパーさん。1954年の洞爺丸事故で父を失ったリーパーさんは今、「豊かさを問う交流の場」として広島県三次市に「平和文化村」を開設し、持続可能な生活を実践するモデルをつくりながら、広島女学院大学、長崎大学、京都造形芸術大学の客員教授をされています。
弊社ミューズの里の活動をご支援くださり、広島ライブなどでホームステイさせていただき、いつも祈ってくださっているファミリーの立花美智子さんから、スティーブン・リーパーさんがディーン・リーパーさんのご長男だったことを教えていただきました。
たくさんのご縁の中で、生かされていることへの感謝と共に、心に平和を抱き、1日1日を大切に精一杯生きていこうと改めて心に誓いました。