谷口さんに、初めて被爆体験を聞かせていただいたのは、31年前のことでした。アメリカの学校等でヒロシマ・ナガサキの原爆フィルム上映会を行うボランティア活動に参加する前のことでした。
原爆が長崎に投下された時、
郵便配達中で16歳だった谷口さんは、
原爆で背中一面が真っ赤に焼ける大やけどを負い、
1年9カ月 にわたってうつぶせのまま、
「死なせてください」と訴える地獄の日々だったと言います。
退院されたのは被爆から3年7カ月後のことでした。
その後もずっと、膿みを取る治療が欠かせない毎日をおくられていました。
お世話になった広島・長崎の被爆者の方々が
毎年一人、また一人と亡くなられ・・・
昨年は、被爆者の心に寄り添い、被爆者運動を支えてこられた
池田眞規弁護士や伊藤直子さんが亡くなり・・・
谷口さんの訃報が知らされ・・・
喪失感がつのります。
毎年お世話になってきた被爆者の方々が
亡くなっていかれる中で、
歌と語りでヒロシマ・ナガサキを伝えるライブ
「いのちの音色」公演をスタートしたのは、
2008年8月6日のことでした。
原爆が広島に投下されて10年後
1955年にアメリカに招かれ、
原爆乙女の一人として、
1年半に渡り27回の皮膚移植手術が行われ
ケロイドの治療を受けた山岡ミチコさんが
2006年8月6日に脳梗塞で倒れたにもかかわらず
、翌年には療養生活を続けながら
証言活動に復帰されている姿を見て、
いてもたってもいられず、
何か自分に出来ることを続けていかなければ
という思いからスタートしたライブ活動でした。
(山岡さんは、2013年2月3日に亡くなられました。)
2011年7月12日には、
この「いのちの音色」ライブを応援してくださっていた
アオギリの語り部と呼ばれた広島の被爆者 沼田鈴子さんが
亡くなり、その後沼田さんの前半生をモデルとした
映画「アオギリにたくして」が製作され
今も上映活動が続いています。
31年前、アメリカの学校や教会で上映した「にんげんをかえせ」の中で、沼田鈴子さんや谷口稜曄さん、仙二さんらが被爆した当時のことを証言され、未来に託すメッセージを伝えています。
そのメッセージを受け取ったアメリカの子供達の姿に、
核なき世界を目指す上で
ヒロシマ・ナガサキの被爆者の方々のメッセージが
いかに大切なものかを体全身で感じました。
たとえどんなに微力であっても、
たくさんの被爆者の方々との出会いをいただいた一人として、
バトンを受け継ぎ、いのちある限り、
これまでお世話になった被爆者の方々の
メッセージを伝え続けていこうと改めて心に誓います。
谷口さんのご冥福を心よりお祈りいたします。
安らかにお眠りください。
No more Hiroshima!
No more Nagasaki!
No more Hibakusya!
No more War!
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