2017年08月19日

砂川平和ひろば「浅間山米軍演習地化反対運動の語り部のお話」

現在製作中の第三作目となる
ドキュメンタリー映画「砂川の大地から」


砂川の大地では、
12日に撒いたお蕎麦が、雨続きの中、
立派に発芽して成長しているようとの
ご報告が福島京子さんよりありました。


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▲撮影:福島京子 砂川の大地に育つ蕎麦 


暑い中、砂川平和ひろばの改装工事がつづいています。
そして、明日は、砂川平和ひろば主宰の軽井沢ツアー。
軽井沢町の堀辰雄文学記念館前にて集合です。

13:00より「浅間山米軍演習地化反対運動を学ぶ」
 語り部:荒井輝允さん(浅間山米軍演習地化反対期成同盟 青年団) 

15:30より 追分宿見学(午前に続き)か、軽井沢歴史民俗資料館 解散
    鳩山家別荘見学(砂川闘争の時、婦人たちが抗議行きました)


明日早朝、立川で車に乗せていただき軽井沢に向かい、
砂川ひろばの皆様に同行取材・撮影させていただきます。

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軽井沢研修資料
−浅間山米軍演習地化反対闘争を学ぶツアー
(砂川平和ひろばの張さんより)
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 朝鮮戦争の最中の1953年4月。浅間山の麓に位置する長野県軽井沢町周辺の住民は、突然の米軍演習地の設置通告に騒然となった。聖なる浅間山に生きる人々にとってこの通告はまさに晴天の霹靂であった。

 当時のアメリカ軍−正確にはUN軍−は圧倒的な軍事力でもって中国の国境付近まで北朝鮮を攻め込むも、これに危機を感じた中国側が血盟関係の北朝鮮に大軍を派兵すると戦況は一気に逆転する。その結果、ふたたびソウルが陥落し、戦争は長期消耗戦の兆しを見せ始めていた。アメリカ軍は想定外の酷寒の山岳戦に辛酸をなめ、甚大な人命損失を葬っていた。この朝鮮半島の戦況に連動し、アメリカは急遽日本に冬季の山岳戦闘演習地設置に取り掛かり、その候補地として浅間山が日米安全保障条約の名の下で決められたのである。

 朝鮮戦争が始まって1年3ヶ月が過ぎた1951年9月。西邦世界だけの参加するサンフランシスコ講和条約が締結され、日本は主権国家として国際社会に復帰することができた。が、しかしそれは歪められた戦後体制のはじまりでもあった。以来、いわゆる日米安全保障条約における日米地位協定は、日本列島のアメリカ軍基地化を容認する呪縛となっていった。

 ところが、泥沼化する戦況に焦りを見せていたUN軍総司令官マッカーサー。彼はついに核兵器使用を主張するに至る。しかし、これは三度の世界大戦−しかも核戦争に−エスカレーターする危険性を大いに孕んでいた。こればかりは避けようとアメリカ政府はマッカーサーを解任し、停戦協定を結んで戦争状態から脱する方向へと舵を切り替える。結果、1953年の7月27日板門店にて停戦協定書に署名が交わされ、ようやく朝鮮半島は戦争の「一旦停止状態」へと転換し、現在に至っている。このように、最も緊迫した朝鮮半島情勢のど真ん中で起きたのが「浅間山米軍演習地化反対闘争」であったが、その展開は予想をはるかに超える形を見せていた。強力な結衆の力は日米安保条約の盾を突き破り、地元住民側の電撃的な勝利となったのである。通告から僅か4ヶ月足らずの出来事であった。

 地域が一気に「結衆」し、素早く世論を軽井沢に向かわせ、「200万人」の賛同者たちを得るまで数ヶ月も要しなかった「浅間山米軍演習地化反対闘争」。この闘争の本質はどこにあり、勝利の背景に何があったのか。また、この歴史的な勝利が何故人々の記憶から消えていってしまったのか。これらの謎を解くすべての手がかりが浅間山麓の現地にある!

 私たちは信じてやまない。この厳然たる反基地闘争の水脈が大地を伝わって武蔵野の砂川にまで流れていることを。そして戦後の「闘争時代」に、今に活かすべき光が潜んでいることを・・・。

砂川ひろば

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posted by ぷらっとハッピー日記 at 19:00| 東京 ☀| 砂川の大地から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする