広島・長崎の被爆者の方々に寄り添って人生を歩まれたお二人が、相次いで亡くなられたことを知り、心にぽっかり穴が開いて、この悲しみをどの様に自分の中で整理したらいいのかわからないまま、11月が終わろうとしています。
ちょうどオフィスの引越しを翌日に控えて、上映会とも重なり、体調を崩しながら、あまりにも忙しかった時期と重なり、呑田務さんからいただいたメールのお知らせを見たのが遅くなってしまいました。お二人が亡くなられたことを知った後も、あまりのショックでしばらく言葉になりませんでした…。
ヒロシマ・ナガサキは教科書の中の過去の出来事としか思ってなかった私が、30年以上前に、たまたま応募した草の根ボランティア活動「ネバー・アゲイン・キャンペーン」の第1期民間大使として一年間渡米することになり、被爆者の方々の証言を聞くために一番最初にご相談に伺ったのが伊藤直子さんでした。
伊藤直子さんは、日本被団協事務局員および、日本被団協原爆被爆者中央相談所相談員として勤められ、定年退職後も、社団法人中央相談所理事、社団法人解散後は中央相談所委員会委員として、日本被団協の相談活動に貢献されました。
21歳の時「ネバー・アゲイン・キャンペーン」代表の北浦葉子さんから「伊藤さんに嫌われたらもう終わりなのよ!」と何度も厳しく言われ、言われている意味もよくわからないまま、不勉強でヒロシマ・ナガサキのことを何も知らず、平和について改めて考えてみたこともなかった私は、ビクビクしながらご挨拶しに伺いました。お会いすると、それだけ北浦葉子さんが信頼された方なのだということがすぐにわかりました。
伊藤直子さんに初めてお会いした時、厳しい眼差しの中にある誠実で真剣な思いと、現実をしっかりと受け止めながらも、負けずに力強く生きていくことの大切さを知り、直子さんから滲み出てくる優しさに、理想と希望を持って生きることの偉大さのようなものを感じたことを覚えています。そして、直子さんは、戦後生まれで戦争体験も原爆の体験もない者たちが語り継いでいくことの大切さを語ってくださいました。
「体験のない者に一体何が伝えられるのだろう?」と、渡米が決まった後も不案でいっぱいだった私にとって、伊藤直子さんの存在はとても厳しくもあり、そしてとても力強いものでした。
直子さんと最後にお会いしたのは、昨年の夏。石川県文教会館ホールで開催された映画「アオギリにたくして」上映会と、歌と語りで伝える「いのちの音色」中村里美&伊藤茂利ライブでした。石川県原爆被災者友の会会長の西本多美子さんはじめ皆様が企画してくださった上映会とライブに被爆者の岩佐幹三先生ご夫妻と共に東京から杖をつき足を引きづりながらも駆けつけてくださいました。
▲昨年2015年7月27日、石川県での上映&ライブに来てくださった伊藤直子さん(左)
昨年夏に行われた石川県で初の「アオギリにたくして」上映を前に、昨年4月、広島市から送られて来た被爆アオギリ2世が、眼下に金沢の街が広がり、晴れた日には日本海まで見渡すことのできる壮大な眺めの大乗寺丘陵公園に植樹されました。被爆者の西村多美子さんに案内いただき今は亡き伊藤直子さんと共に、植樹した被爆アオギリに会いに、夏の上映会&ライブの翌日(2015年7月27日)みんなで一緒に行ったのが、直子さんとの最後となりました。
未だに勉強不足な私を、いつも大きな心で受け止めて、見守りながら応援してくださいました。
この6月にアメリカでの「アオギリにたくして」上映を行い、来年再渡米していくにあたって直子さんに会ってお伺いしたいたくさんのことがありました。今年の上映会がようやく少し一段落し、直子さんに会いにいつお伺いしようかと思っていた時でもありました。
直子さんは被爆者ではありません。「もともとは非行少年たちを更生させていく福祉の仕事をしたいと思っていた」という直子さん。たまたま大学卒業の時の就職で応募のあった被団協に就職され、当時まだ事務所ができたばかりの全国の被爆者の会の協議会である日本被団協の事務局に入り、日本被団協中央相談所の相談員もされながら、ずっと被爆者の方々と共に核兵器廃絶をめざしてがんばる被爆者の運動をかげからずっと支えてきた方です。直子さんの存在は、被爆者運動の中でとてもとても大きな存在だったのではないかと思います。そして、直子さんは体験のない我々が次の世代に語り継いでいくことの大切さをいつも語り、どんな時も応援し続けてくださいました。
直子さんが亡くなられてしまった…その悲しみがいえない時に、直子さんや被爆者の皆様と共に被爆者集団訴訟を戦ってこられた全国弁護団団長の池田眞規先生の訃報を受け取りました。池田先生にもこれまで大変お世話になり、いつも応援くださり、お話を聞かせてくださいました。世界から熱い視線が寄せられた「く」の字に曲がっている百里基地の誘導路のお話は、戦争の惨禍の再現を無条件に否定する信念を生活の中で貫いて戦ってきた人々の誠実さに我々が関心を持って真剣に学ぶことの大切さを教えていただきました。軍隊のない国コスタリカの平和教育について熱く語られ、被爆体験を伝えた時の感動的なお話を今も忘れることができません。いつかコスタリカに一緒に行って「アオギリにたくして」を上映をしましょう!とお話したのが最後となってしまいました。
常に被爆者の方々の心に寄り添われながら…
被爆者の皆様と共に、被爆者運動を支えてこられたお二人のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
下記は、伊藤直子さんが映画「アオギリにたくして」製作に向けてたくしてくださった2012年12月のメッセージです。改めて読み返しながら、直子さんから受け取ったたくさんの想いを伝えていきたいと思います。
〜「アオギリにたくして」への期待と被爆者〜
広島・長崎に投下された原子爆弾に被爆して被爆者健康手帳を所持する被爆者は、2012年3月末210,830人となっています。この数字は被爆者健康手帳所持者が一番多かった32年前の1980年の372,264人から16万人を超える被爆者が亡くなられたことを示しています。平均年齢が77.44歳となっています。
近年被爆者の高齢化が叫ばれていますが、実体験をした被爆者が年々加速的に亡くなっていかれているのが現実です。
被爆者の一番少ない秋田県の被爆者健康手帳所持者は38人です。病気のため体験を語れる被爆者が本当に少なくなっています。また、高齢化に伴って認知症で体験を語れなくなってもいます。これは全国的に共通していることです。それだけに生存する被爆者の被爆体験を継承することは、急ぐ必要があります。継承のかたちは様々なものがあると思います。
中村里美さんの企画・プロデュースによる「アオギリにたくして」は、中村さんが被爆者沼田鈴子さんの被爆体験と被爆者としての戦後66年の人生を「継承」して、沼田さんの核兵器廃絶の願いを世界に発信しようとするものです。
1986年にアメリカで広島・長崎を伝えるネバーアゲインキャンペーンの第1期生となった中村さんは、出発前の準備の研修会で沼田さんと知り合ったということですが、多分彼女にとって初めての「被爆者」だったと思います。以来沼田さんがお亡くなりになられる直前まで親交を重ねられていました。
最近強く思うことですが、被爆者の体験は確かに深刻です。「かわいそうに」と同情しがちですが、深刻な体験を持つ被爆者たちの多くは元気だということです。それは病気をしたり、不安を抱きながらも67年生きてきたこと。自らの被爆体験を語ることで、小中学生などから感謝され、体験を語ることが生きがいとなっているからだと思います。悲しいこと、悔しいこと、苦しいことなどたくさんある中でも、被爆体験を語ることを通して、それが世界の平和につながっていること、目の前で子供たちが目を輝かせて聞いてくれることが喜びになっているのです。長く生きて、体験を語らなくてはとの思いが強くなっているようです。沼田さんもきっとそんな思いだったのではないでしょうか。沼田さんが原爆に抗うようになった姿は、たくさん被爆者に共通しています。被爆者の人間としての強さも見えてくると思います。「アオギリにたくして」が描く被爆者の戦後の人生を通して、核兵器廃絶への世論が、国際的なものになることを期待します。
伊藤直子(2012.12.25)
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