秋田での上映でお世話になっている
秋田県映画センターの吉田幸雄さんがご執筆された
「映画と戦争と平和〜最後の空襲地から〜」
をシェアさせていただきます。
「自分でできることをしようと思う」
という吉田さんのお言葉に
深く同感いたします。
現在制作中のドキュメンタリー映画「いのちの音色」でも
吉田さんにお父様の戦時中の体験を
お話しいただき大変お世話になりました。
改めて心より感謝申し上げます。
🍀 🍀 🍀
映画と戦争と平和
(最後の空襲地から)
文:吉田幸雄 秋田市土崎港生まれの私は、8月14日が近づくにつれてさまざまなことを思い起こす。
子どもの頃の祖母の口癖。なにかあると、「コンドセンソオギダラ、イッショニイデ、シヌノハイッショダ」。私は、「シヌノハ、ンタナァ」と思っていた。
私が二十歳になるまで言わなかったという父の言葉。「アノドギ、オレハマッテイダンダ」。父によると、徴兵検査に行ったら「丙種合格」。父は身体は頑強であったが、子どもの頃のけがが原因で右手人差し指の第一関節欠損。天皇陛下が賜る鉄砲を撃つことができないと落伍者の烙印を押されたという。差別や蔑みがあり、屈辱だったという。空襲が始まり、皆が防空壕などに避難する中、「アノバグダンデヤラレレバ、ヘイタイニトラレダヤヅラドオナジグナレル」と屋根に上り、胡坐をかいて死ぬのを待っていたと言った。
私には戦争の実体験はないが、子どもの頃の昭和30年代は、花見に行った護国神社や千秋公園には、白装束で手や足を失った傷痍軍人が物乞いをする姿が当たり前にあって、近寄りがたい空間を作っていたし、戦争には行かなかった近所の若者衆が、これからの日本をどのようにしたらいいのかと、近くの虚空蔵尊堂の草っ原に車座に座ったり寝そべったりしながら真剣に話し合っている姿を眼にして耳に残っている。「マゲダガラ、アメリカノイウゴドキガネバイゲネンダベ」。「ソンタゴドネェ、イワネバイゲネゴドハ、イワネバイゲネンダ」。「ヤマトガシズマネデイレバ・・・」。
中学生の頃、何気なく教室の窓から「向かい浜(ムゲハマ)」を見ていると、砂煙が高く上がり、時間差で「ドオ〜ン」という鈍い音がガラス窓を震わせることがあった。自衛隊が空襲で使用された米軍の不発弾を処理する音なのだが、なんとなく日常になってしまっていた。
ある男性から直接聞いたのだが、空襲が始まってすぐ、父親が裏の小屋に連れて行き、針状のもので腕のあちらこちらを刺した。痛いと言う間もなく父親は炭俵から炭の粉を握り取って、傷ついた腕に擦りこんだという。
その男性の腕を見せてもらったが、数え切れない黒子状の刺青があり、「自分が死んだときに、父親が自分を捜す目印にしたのだろう」と言う。
これらは笑い事ではなく、現実に修羅場に遭遇すると人間は日常では考えられないことをするものだということを証明している。製油所など攻撃目標となるものがあり、一旦有事となると、このような考えられないことが世界中に無数に発生する。
78年前に終わったアジア・太平洋戦争とはなんだったのか。広島・長崎への原爆投下や東京大空襲、そして終戦前日の土崎空襲などの被害についてはそれなりに一般化しているが、日本があの戦争で何をしたのかについては、あまりにも見える化が進んでいない。
見える化の第一歩となった映画作品が、山本薩夫と亀井文夫の共同監督による映画「戦争と平和(1947年)」。主人公小柴建一(伊豆肇)は、南方へ向かう輸送船が撃沈され、中国沿岸に漂着。中国各地をこじきのように放浪する中で、戦火に追われ故郷を捨てて流れ歩く中国人の姿を繰り返し目撃する。盲目の少女が歌う、戦火の苦しみを訴え侵略者への呪詛を投げかける「流亡の曲」も聴いた。教師であった建一は、日本の戦争の真実に目覚めてゆく。戦後復員した建一が目にしたものは、東京大空襲で焦土となった東京の下町と、そこに住む建一の戦死公報を受け取り、夫の親友(池辺良)と再婚し子を成した妻(岸旗江)の姿だった・・・。
この作品は、日本国憲法制定公布記念映画として、憲法第九条の「戦争の放棄」をテーマとして占領軍の提案で製作されたもの。戦前軍の命令による国策映画「熱風」や「翼の凱歌」などの意に沿わない作品を世に出していた山本薩夫監督とドキュメンタリー監督として名を成している亀井文夫監督が、ドラマと実写を融和させ、提案者の思惑を超える画期的作品に仕上げた。
しかし占領軍の検閲で、労働者のデモシーンなど二十数ヶ所、時間にして約三十分のフィルムをカットして公開が許可されている。
監督が訴えたかった本質は、実はこのカットされた最後のシーンだったと思われる。
山本監督はこの後、朝鮮戦争の真っ最中に自身が軍隊で経験した軍国主義のリアリズムへの怒りをこめた作品「真空地帯(1952年)」を生み、ベトナム戦争中ベトナムを訪れ、長編記録映画「ベトナム(1969年)」を製作。その際米軍の姿にかつての日本軍の姿を思い起こし、反戦平和運動の総決算として、1928年の「山東出兵」から1939年の「ノモンハン事件」までの日本の大陸侵略史とその政治的、経済的、社会的背景を丸ごと映画化するとてつもないスケールの大作「戦争と人間三部作(1970〜1973年)」の構想を固め、完成させた。
山本監督は映画「マタギ」の撮影時に師弟関係にある後藤俊夫監督の応援で秋田に入ったのだが、移動係を仰せつかった製作進行の私は、車中で多くのことを教えていただいた。中でも、笑いながら、「吉田君、映画は面白くなければ映画じゃないよ」と話されたことを思い出す。
山本監督の作品で私の一番印象深いのが、「にっぽん泥棒物語(1965年)」。「映画は大衆のもの」という立場が鮮明となる山本監督の面目躍如といえる作品だ。
戦争は敵から国を守る正義の戦争として始めるが、沖縄戦や世界中の戦争を見ても軍隊は国民を守らず、戦争を遂行するためには住民の犠牲はやむをえないものと考えるのが軍隊と戦争を始める者たちの論理。また矛と盾の論理も付きまとう。
撤退されてはいるが、今後イージス・アショアが設置され、一旦有事となれば、どのような悲喜劇が生まれるのだろうか。
政治家や行政を担う者は、人をグロスで扱いがちだが、個人個人の視点で見つめることができれば、今とは違うもっと別の政策や法制度となるのだと思う。
車座で話す若者たちの中に、日本の敗戦について「トウジョウノセイデ・・・」、「グンノボウソウ・・・」という人がいて周りも同調していたが、果たしてそれだけだったのだろうかと今思う。新聞やラジオの影響力が圧倒的だったあの時代でも、何かおかしい、どうしてこんなことにと思って行動した人は確実にいたし、少しずつ段々と息苦しさを増していったはずだ。
今問題になっている年金や少子化などは、ずいぶん前から危ないと言われていたにもかかわらず、今は触れないでおこうと空気を読んで問題を先送りにしてきた結果ではないのか。イージス・アショア設置について議会や個人が意思表示をしなかったことも、少しずつ変貌してゆき、後刻取り返しがつかなくなった時に、誰かのせいにするための逃げを打っているように感じるのだが、そのような論議は、沖縄に向かう戦艦大和に乗ったばかりの乗組員たちの話し合いに思えてならない。
国連常任理事国で核超大国のロシアが、隣国のウクライナを侵略して一年半となるが、停戦のめども見えていない。世界中がキナ臭くなり、新たな戦前が完成し日本も巻き込まれようとしている今、未来を生きるまだ見ぬ子どもたちのために私たちのすべきことは何か。私たちの残すべきものは何なのかを考え、意思表明する時期と思う。
修羅場に遭遇しないように、戦争に反対するためには、あれやこれやと理由付けは要らない。自分でできることをしようと思う。
秋田市土崎港を永久に最後の空襲地とするために。
被爆アオギリ・・・元気です。
🍀 🍀 🍀
吉田さん、ありがとうございます。
吉田さんから弊社ミューズの里に送られてきた
ポポーの種も発芽して元気に成長しています🌱

またお会いできる日を楽しみにしています!
posted by ぷらっとハッピー日記 at 11:18| 東京 ☀|
映画『アオギリにたくして』・アオギリ祭り
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