2023年05月18日
ドキュメンタリー映画『いのちの音色』制作中〜!気持ちを書き留めながら…
まだまだ制作中ではありますが
大切で素敵な、みんなの思いのいっぱいつまった
作品となる手応えを感じながら
ドキュメンタリー映画『いのちの音色』を編集中です。
皆さんに読んでいただくために
という余裕もないまま…
制作中のその時々に自分が受け止めた気持ちを
書き留めるために
ブログを更新しながらの日々です。
大変な日々が続きますが
笑顔を忘れず、心に平和を抱きながら
完成に向けて1日1日、
最後まであきらめずに
できるところまで
みんなで進んでいきたいと思います。
🍀ドキュメンタリー映画『いのちの音色』制作中〜!
https://musevoice.com/inochi/
ドキュメンタリー映画『いのちの音色』制作中:「岩佐幹三さんの言葉」

『いのちの音色』の撮影でもお世話になった
日本被団協の元代表委員で金沢大名誉教授の岩佐幹三さん(享年91才)
(2020年9月7日、膵臓がんのためご逝去されました)
2011年には大江健三郎さんらと発起人となり
「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」
を結成して代表理事を務め、
2016年には当時のオバマ米大統領の
広島訪問に立ち会われました。

原爆が広島に投下された時、岩佐さんは16歳でした。
お父様はすでに病死され、原爆でお母様とたった一人の妹を失いました。
爆心地から1.2キロだった自宅の家の下敷きになって動くこともできず…原爆の火に焼かれるお母様を置き去りにしたことや、学徒動員で出たまま戻らない妹をいくら探し回っても見つけることができなかったこと、そして自分が軍国少年であったことなどへの様々な思いを抱えながら生きてこられた岩佐さん。
「いろんな考えを積み重ねながら生きてきました。
被爆体験を話せないことはないが
淡々と話しているんですね
親がくよくよしない子どもに
育ててくれたと言ってきたんですけど…
違うんだな… 」
岩佐さんの言葉に
心の奥底にある計り知れない
深い悲しみを感じます。
「被爆者という人間はいない。
皆さんと同じ普通の人間が、
被爆者という運命を背負わされたのです。
核兵器というものは、
人間に一生涯、原爆の被害というものを
背負わさせるんだということをわかってほしい。
皆さん方がいつヒバクシャ になるかわからないということを、
そういう自分の問題として考えていただいて、
核兵器廃絶の運動を高めていただきたい」

被爆者運動をリードし
戦争も核兵器もない世界の実現に向けて
生涯尽くされた岩佐幹三さん。
「沼田鈴子さんも自らと戦い続けてきた。
語れる人も… 語れない人も…
自らと戦い続けてきたんです」

石川県・金沢に呼んでいただき
岩佐さんと初めてお会いしたのは20代でした。
今振り返ると想像力が及ばず、受け止めきれていないことがいっぱいあった自分が思い返されます。
あれから40年近くたつ今になって
初めて感じる新たな気持ちと出会います。
きっと今だって、わかっていないことがたくさんあるのだろうと思いながら‥‥
戦争や被爆体験のない我々ではありますが
被爆者の方々の想いを
少しでも伝えていける作品をつくっていけるよう
全力を尽くしてまいりたいと思います。

🎬ドキュメンタリー映画『いのちの音色』
https://musevoice.com/inochi/
ドキュメンタリー映画『いのちの音色』制作中〜!「北海道の苫小牧市で元気に育つ被爆アオギリ2世」

苫小牧市は、北海道内で唯一
非核平和に特化した条例として
「苫小牧市非核平和都市条例」を制定しています。
2002年、非核平和都市条例制定を記念して開催された平和祈念講演会では、アオギリの語り部と呼ばれた沼田鈴子さんの講演が行われました。またそれ以前にも、苫小牧の市民の方々が沼田さんの講演会を開催し、平和の輪が広がっていったそうです。

▼被爆アオギリ2世 @苫小牧のサンガ―デン(図書館&植物園)

苫小牧市戦後70年特別事業として開催された講演会では
ギタリストのしげ兄さんと共に、講演とライブをさせていただきました。

北海道・苫小牧で出会った松本昌恵さんは
「知らないことも罪なんだよ」
とテレビ番組で沼田さんが語っていた言葉を聞いて
金槌で頭を殴られたような衝撃を受けたと言います。
戦争は過去のことと自分の中で蓋をし
こどもたちに何も伝えてこなかったことに気づき
その後、沼田さんと長年に渡る交流をされてきました。
沼田さんが送った松本さんへの手紙には、
「私は常に生き生きとした雑草として、気負わず、太陽に向かって根付いて生きようとしています。
あなたも可愛い雑草になってくださいね…」
と書かれていました。

🎬『いのちの音色』公式HP
https://musevoice.com/