2021年08月09日
長崎への原爆投下から76年目を迎える今日、米ソ冷戦時代だった35年前を思い起こしながら‥‥
「長崎を最後の被爆地に!」
「世界中の誰にも、二度と同じ苦しみをさせたくない!」
民間の平和大使として
被爆者の方々のメッセージを
アメリカで伝え歩いた35年前、
世界はまだ米ソ冷戦時代でした。
私が一番最初に訪れたアラスカ州は、
ロシアと一番近い場所であったことから
何かあれば、一番最初に攻撃されるのは自分たちだと感じている若者が多いと言われていました。
ユーラシア大陸とアメリカ大陸を分かつ
ベーリング海峡のほぼ中央にダイオミード諸島があります。
アメリカ領のリトルダイオミード島の
3.8キロ先が、ロシア領のビックダイオミード島で
もともとそこにはエスキモーが暮らしていました。
冬になると二つの島の間が氷に覆われ
歩いて自由に行き来していましたが
私が訪れた時は、氷のカーテンがひかれていました。
北極圏の入口であるノームで
私は、エスキモーのお母さんの家に
ホームステイしていました。
当時、リトルダイオミード島には
ロシア語で「Mир」(ミール=平和)
と書かれた大きな看板が
ビックダイオミード島に向けて掲げられ
親族でもあるお互いの交流を続けていくために、
風船に手紙をつけて、3.8キロ先のビックダイオミード島へと飛ばしているのだと話してくれました。
長崎への原爆投下から76年を迎える今日
35年前の記憶を思い起こしながら
エスキモーの皆さんにも観ていただいた
「にんげんをかえせ」に出演され
渡米前にお世話になった
今は亡き長崎の被爆者 山口仙二さん、谷口稜曄さん、片岡ツヨさんの言葉がリフレインしています。
原爆を落とした国の人々に
原爆で犠牲となった人々の
思いを伝えることは難しくもありました。
しかし、その難しさを超えて
1年間に約280回ものプレゼンテーションの機会を与えていただきました。
それはきっと、憎しみや怒りを超えて
世界中の人々の幸せを祈りながら
被爆体験を伝え続けてくださった
ヒロシマ・ナガサキの被爆者の方々のメッセージが
国を超えて人々の心に届いたからだと思います。
そして、体験のない私が、
ヒロシマ・ナガサキを
伝えたいと思うことが出来たのも
出会いをいただいた被爆者の方々の愛に溢れるメッセージがあったからです。
昨年、核兵器禁止条約が
発効されました。
まだまだ課題があるとはいえ
冷戦時代だった35年前、
このような日が来ることを、どれだけの人が想像できたでしょう。
核兵器なき世界の実現は、理想論ではなく
生き地獄を実際に見た被爆者の方々が
その体験の中から、
人類と地球の未来を考えた時
それ以外にないと確信する
現実的な答えなのだと思います。
ノーモア・ヒロシマ
ノーモア・ナガサキ
ノーモア・ヒバクシャ
ノーモア・ウォー
微力であっても、これまでお世話になった
被爆者の方々のメッセージを
映画や音楽などを通して
命ある限り伝え続けていきたいと思います。