2017年05月22日

武蔵野の記憶遺産としての「砂川闘争」を今に再発見!

初監督をつとめさせていただく、第3作目となるドキュメンタリー映画「砂川の大地から」の取材・撮影で、5月21日に砂川へ伺わせていただきました。

「土地に杭は打たれても 心に杭は打たれない!」
 この砂川闘争の合言葉はどのように生まれたのか。
 大地に打たれた杭を辿りながら
 武蔵野の記憶遺産としての砂川闘争を
 今に再発見してみてはいかがだろうか」

米軍立川基地全面返還40周年記念として企画された「砂川闘争の現地を歩く会2017年実行委員会」様の主催による「砂川闘争の旅学シリーズ」フィールドワークに伺わせていただきました。


「旧砂川町役場」だった砂川学習館に集合。1955年6月18日、立川基地拡張絶対反対町民総決起集会が開かれ、何度となく境内で集会が繰り返されたという「阿豆佐味天神社」を訪れ、宮伝町長宅 ➡︎ 青木行動隊長宅・5番組公会堂 ➡︎ 団結小屋跡 ➡︎ 宮岡副行動隊長宅 ➡︎ 麦畑で昼食 ➡︎ 返還された基地内の畑 ➡︎ 反戦旗ポール跡 ➡︎ 砂川平和ひろばを辿りました。

◎旅の案内人:福島京子(砂川平和ひろば主宰)+青木栄司(コミュニティ・カフェステッチ代表)+大洞俊之(立川テント村)


歴史の扉が開かれ、返還された基地内の畑を見た後、レイクランド大学のトンプキンス先生のスピーチが行われました。

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2017,5,21 Tompkins先生スピーチ

本日は、お話する機会を与えていただきありがとうございます。福島京子さん福岡愛子さんから、砂川闘争と「アメリカインディアン運動」の共同創始者であるデニス・バンクスとの繋がりについて語ってほしい、と言われました。また、平和運動に関連する彼の活動についても、少し話してほしいとのことでした。それは、世界中で進取の精神に富んだ人々が国境を越えて触発し合い、アイデアと力を引き出し合うという価値の素晴らしさを物語るものです。

デニス・バンクスが、1956年に初めて砂川という地域と出会ったとき、彼は横田基地に駐留する空軍兵士として、フェンスの向こう側にいました。日本の警察が、砂川で平和的な活動をする人々に対し暴力で立ち向かってきたとき、彼は、立川基地のフェンスラインの内側で監視に立っていたのです。デニス・バンクスは、デモ隊の誰でもいい基地内に入る者がいたら「打ち殺せ」と言われた、と述べています。彼が、実は自分は間違った側にいるのだと気づき始めたのは、その時でした。何世紀にも渡って自分たちの土地を盗み取られてきたネイティヴ・アメリカン(アメリカ先住民)としての経験は、立川空軍基地の周辺住民である砂川の人々に重なっている、と気づいたのです。打ち鳴らされる太鼓の響きまでもが、彼にネイティヴ・アメリカの太鼓の音を思い出させました。彼は、自分が共感するのは砂川の人々に対してであって軍に対してではない、と悟りました。さらに、アメリカに帰ると彼は、砂川を守ろうとする人々の勇気と実力行使に触発されて、ネイティヴ・アメリカンの権利を守る闘いへと駆り立てられました。人種差別や政府の不当性と対決し、「アメリカンインディアン運動」を創始したのです。

砂川でデモをしていた人々と同じように、ネイティヴ・アメリカンもまたアメリカの警察の暴力に遭い、運動の初期の活動は警察の蛮行をめぐる闘いでした。とりわけ現住地を返還し政府が部族の主権をもっと認めるように求めて、「破られた条約のための行進」を呼びかけ、アメリカ全土にデモ行進を行いました。1970年代に運動が拡大すると、政府は連邦警察を使い何度も裁判を起こして、ネイティヴ・アメリカンの運動を失速させたり逆行させたりしようとしました。デニス・バンクスは、1984年に懲役三年の判決を受けましたが、出所後もまた活動を続けました。

デニス・バンクスの行動主義は、平和と文化保存、そして環境の持続可能性といった問題が中心です。彼はアメリカを横断するクロスカントリーウォークや、日本で広島から北海道まで走破するセイクリッド・ランなどを組織・統括しました。日本山妙法寺の支援と協力を得て、私たちは七世代先を考えて生きなければならないという考えを推進するために奮闘してきました。七世代先を考えるとは、環境を守り、核施設やスタンディング・ロックのパイプラインなど潜在的に有害性のある建設に反対し、平和を唱え、様々な背景を持つ広範な人々と学び合い共同し合う、ということを意味します。デニス・バンクスにとってこのような考え方・生き方は、砂川闘争の種から芽生えた精神でもあるのです。

〜砂川闘争の旅学資料集より(砂川平和ひろば編集)〜


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1955年6月18日、立川基地拡張絶対反対町民総決起集会が開かれた阿豆佐味天神社。参加者1300名。その後も、この境内で何度となく集会が繰り返されたという。

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▲今では「猫返し神社」として知られる阿豆佐味天神社。

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▲案内人で「砂川平和ひろば」主宰の福島京子さん。


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反対闘争で守った宮岡政雄の土地の麦畑
〜「砂川闘争の旅学」資料集より(砂川ひろば編集)〜


砂川闘争当時の砂川では、戦前から盛んに行われていた養蚕のための桑畑、小麦、さつま芋、陸稲などが栽培されていた。16代続く宮岡正雄の生家は、1945年8月2日に、焼夷弾により焼失してしまったため、戦後はそれまで蚕室として建てられていた家を、住居に改修して住むことになり、戦後は主要な養蚕ができなくなり、桑畑は小麦やさつま芋、陸稲栽培に変わった。

1955年5月4日、拡張が知らされ、初めての会合が5番組公会堂で開かれる日、宮岡政雄は麦の手入れをしていた。作業をしながら、「今は、主権在民の新憲法の下、戦前の陸軍の基地の拡張の時代とは違う。この法の下にたった一人になったとしても戦争に繋がる基地の拡張に絶対反対する。その結果土地を奪われたとしても、先祖は恨まないだろう。私が散在して失うわけではないのだから」と決意し、5番組公会堂に向かった。その畑は、激突の度に踏み潰され、さつま芋がむき出しになり、時には援農の労働者、学生が収穫を手伝った。また、運動麦播きが遅れて来年の収穫が危ぶまれた時、反対同盟の人々が麦まきを手伝い、例年通りの収穫ができた。支援者や反対同盟の絆で守られた畑に、砂川闘争当時の作物を植え、今麦畑を再現している。そしてここから、「砂川地粉」・「砂川地粉うどん」が作られている。

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歴史の扉を開けて中へ。
返還された基地内の畑へ。

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◎ドキュメンタリー映画「砂川の大地から」Facebookページ
➡︎ https://www.facebook.com/SunagawaDocumentary/
posted by ぷらっとハッピー日記 at 21:08| 東京 ☀| 砂川の大地から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする